友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。
カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH
ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。
2018年7月12日 投稿
友岡雅弥
東日本大震災に際し、さまざまな宗教団体、宗教者が被災地に駆けつけてくれました。
カリタスを中心とするキリスト、また、東日本大震災の経験から「臨床の場で、信仰は必要とされているのか」を真摯に自問し、そのなかで「臨床宗教師」という役割も生まれてきました。
「臨床宗教師」が生まれる瞬間に、その生誕の場とも言うべき、東北大学のある教室に、ちょうどいました。アドバイスも求められました。
僕自身は、「臨床宗教師」でもないですが、元ホームレス経験者のかたの、心臓停止から脳死までにも立ち会いました。その日の朝から、そのかたの話し相手になっていました。
また、在宅ホスピス協会のかたがたと知りあいなので、その関係で、今まで、末期の患者さん、記憶が5分しか持たない認知症の方々の、ご自宅にしばしば訪問に行ったりしてきました。
そこで、経験してきたことは、よく言われることですが、「傾聴」に徹するということが大切であるということ。
ある意味、その場を「私の活躍の場」とするのではなく、「当事者の活躍の場」「当事者が主人公の場」とすること。
一つの例を挙げましょう。
末期の肺ガンで余命半年の宣告を受け、しかし、二年ほど、寿命を延ばした高齢の男性がいらっしゃいました。宮城県です。
一人でそのかたのご自宅に行ったのですが、かなりしんどそうでした。話も、ぜいぜいという声とも音ともつかない中で、聴き取りにくい。
たまたま、その途切れ途切れの話が、昔の仕事の話になったんです。日本の雑誌、文庫本、コミック用の紙のほとんどを作っている、日本製紙石巻工場です。津波でやられて、在庫の紙がなくなったら、日本中の雑誌や文庫本、コミックが出ません。
それで、急ピッチで作業して復活したのです。
その男性が働いていたのは、震災の前なので、その復活の時には、もう定年でした。
途切れ途切れのお話を聴いているうちに、たまたま「木材チップ」置き場の横を、僕は、震災後、しばしば通っていたので、
「あそこの木材チップ置き場すごい量ですよね。あれからパルプに加工するんでしょう」
と、質問したのです。そのパルプ加工場で働いていたのは、知っていましたから。
そうすると、目が輝いて、
「紙を作るローラーの段階では、紙質はほとんど変えれない。だから、チップからパルプにして、パルプを送りだすところで、パルプの密度とか、送りだしの早さを微調整する。それが腕の見せ所だった」
と、延々と話し出すんです。
声も、次第次第に明瞭になり、2時間ぐらいその細かい職人作業を語り終わると、
「あー、おなかが空いちゃった、友岡さん、今日、二人で焼き肉パーティしましょうよ!」となったのです。
近所のスーパーにお肉を買いに行き、戻ってみると、鼻にカニューレを入れて、酸素ボンベを引きずり、ホットプレートを出して、用意をされていたんです。
おいしいおいしいと、たくさん、食べられました。
亡くなったのは、それから二ヶ月後。でも、主治医に聴いたら、肉を食べるなんて考えられなかったけど、その日以降、食欲が戻ったと。
その人が、主人公となり生きる舞台を作るためには、こちらは、受け身であるべき。 こちらが後ろに下り、空間を開けることにより、相手の生きる空間が広がる。
社会学では、disponibilité というのですが、また、そのことについては、後日。
「証言するとは何をいうのか。純粋な傍観者となることではない。それは、共に生きることだ。観察するのではなく、分かち合うことだ。歴史が決定される高みに立つのではなく、歴史が耐えられている低さに身をおくこと」(ルネ・シェレール『歓待のユートピア』p.217)
【解説】
ここには載せませんでしたが、すたぽの記事には、津波で壊滅した岩手県の大槌町で巡回していた真言宗の移動図書館の写真が大きく載っていました。
このころの友岡さんは排他的な宗派意識からは自由になっていたようです。
キリスト教や他の仏教宗派の人とも協力してボランティア活動をしたかったのではないでしょうか。
そういうところが、創価学会執行部の不興をかったのかな。
友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。
獅子風蓮