獅子風蓮のつぶやきブログ

創価を卒業し、組織にしばられず、いろいろ考えたりしたことや、読書感想などを書いています。

友岡さんのエッセイ「アネモネとそよ風」を読む 第三話


永澤さんのXで、これを読みました。
引用します。

 


アネモネとそよ風 第3話 沢内村の奇跡
――社会の病を患者が治す

 

 あこがれの地 

昔話が好きだったので、佐々木喜善、大友儀助などの民話収集家の事跡にひかれ、東北各地によく行っていました。そして、震災以降は東北に行く目的が大きく変わりました。場所も太平洋側に。
でも、ずっとかわらぬ「あこがれの地」があります。
岩手県の沢内村です。このところ、年に数度、通っています。今は、湯田町と合併して、西和賀町となっていますが、僕自身にとっては、かわらず「沢内村」です。
今から半世紀前、それまで日本で最も「乳児死亡率」が高かった沢内村は、わずか5年で、日本で最初に乳児死亡率0を達成しました。「自分たちで命を守った村」「生命行政の村」とも言われ、多くの書籍の題材にもなりました。
2メートルを越える積雪に埋もれ、「雪・貧困・多病多死」の「三重苦」にあえぐ村でした。ながく無医村で、医師にかかるのは、死亡診断書を書いてもらうため他の町に行ったときだけ。死者をおぶって、何十キロも雪を踏み分けて歩きました。もう働いていないのに病気になってもうしわけない、と自殺する高齢者もあとを絶ちませんでした。
1954年に国と県が運営する国保沢内病院ができました。ある大学から何人もの医師が、院長として派遣されてきたのですが、高齢で診察がおぼつかない、また患者を見下した傲慢な態度、2ヶ月で辞めるなど、雪に埋もれる「寒村」を軽視しているとしかいいようのない「派遣」ばかりでした。

 

 沢内生命行政 

1957年5月、教育長であった深澤晟雄(ふかさわ・まさお)さんが村長となりました。「すべてがこの生命尊重の理念に奉仕すべきものである」との就任時の宣言を、村長は、文字通り命を懸けて(1965年1月28日、村長在職のまま、59歳でガンで亡くなります)現実のものとしていきました。
村長は歩きました。まず「医師」を探しに。60年、加藤邦夫医師(内科医)が院長として、63年には、外科の増田進医師が副院長として赴任してきたのです。増田医師は、同時に村の厚生部健康管理課長を兼任し、医療・福祉と行政が一体となった体制が整いました。
写真で分かるように、病院と村役場の厚生部が同じ建物のなかにあります。一体となり細やかな連携がとれたんです。
好例がこのジープと雪上車(南極観測隊仕様です!)。これ、「救急車」なんです。どんな悪い条件でも、いのちを救おうという意志が見て取れますね。通常、救急車は消防署(自治体の役場の管轄)にあり、そこから患者のところに行き、そして病院に運ぶ。しかし、沢内方式は、救急車は病院に直属し、病院から直接急患のところに行くのです。しかも、しかも医師が乗って。そして、救急車としての出動がないときには、村の行政の仕事にも使うんです。

 

 村が変わっていく 

村長は、来る日も来る日も、動きました。
普通「首長が動く」というと、永田町や中央省庁への「陳情」です。しばしば「中央とのパイプの太さ」が首長選のキャッチフレーズであったりします。しかし、深澤村長が動いたのは、逆方向です。
村の暮らしの最前線へ、です。
深澤村長は「村人とのパイプ」が太かった。村長は青年会、婦人会など、村人の集まりを次々と活性化していきました。自分たちで村をよくしていこう、という住民の意識を作り上げていったのです。
とともに、動いたのは保健婦(保健師)さんです。村長は医師より先に、保健婦さんを雇ったのです。4人の保健婦さんが、毎日毎日、一軒一軒家庭訪問を続けました。一人一人のことも、村全体として取り組むべき課題も、保健師さんがつかんできたんです。
今も、「沢内」で小さな診療所を開き、心のこもった医療を行っている増田進医師は、いつもこう語ります。
「沢内生命行政のアイデアは、ぜんぶ保健師さんの意見です。しかも、保健師さんたちが病院を出て外を動いたから、村の人の意識も変わって行ったんですよね」
保健婦さんの活動を援助するための、村の地区ごとに「保健連絡員」という制度がありました。保健などに関する役場からの連絡を村人に伝えることが主な役割でしたが、増田医師は、もっと大事な役割があると考えました。つまり、「村から住民に」ではなく、「住民から村へ」という流れを担う役割です。切実な要望、忌憚ない意見を村民から聴き取って、村役場に伝える役割があると考えたのです。
それまで保健連絡員は、名誉職でした。地域の「エラい人」ばかりでした。増田医師は「選び直しをするべ」と、連絡員の役割を説明して回りました。そして選んだところ、全員が女性。日ごろから面倒見のよい、地域のことを愛する人が選ばれてきました。こうして村が大きく変わって行ったのです。
保健婦さんを中心に、行政、議会、村民が話し合い、実状に根ざした「沢内村地域包括医療計画」を立てて行きました。現場から離れたところで作成され、「上から降りてくる計画」ではなく、「現場から練り上げられた計画」です。
現在、医療、看護、介護、福祉の垣根を越えた、「次世代の町づくり」として、「地域包括ケア」が、厚労省主導で推進されています。しかし、半世紀前に、それを考え、そして実現したのが沢内村だったのです。

 

 私たちがやる 

「国がやらなければ、私たちがやる」――それが深澤村長の口ぐせでした。1960年(昭和35年)に老人医療費無料化(65歳以上)、翌年に60歳以上無料。障がい児・障がい者、母子家庭なども、無料化されました。「社会的に弱い人を大事にしないと、社会がなりたたない」が村長の信念でした。
医療費無料化で、村の医療費負担が増え財政がパンクすると言われました。しかし、現実は逆でした。無料化をスタートした時点で、県平均より1.3倍多かった国保医療費は、5年後には県平均に。15年後には、県平均の7割ほどに減っています。気軽に医療にかかれるので、病気が重くなる前に治療ができたからです。高齢者の自殺も激減しました。

 

 患者が「社会の病気」を治す

何度か、増田医師の診療所を訪れたことがあります。実は趣味が共通(自作のスピーカーでの音楽鑑賞)なんです。いつも、温和な語り口ですが、「医療」の理念について、ゆるがぬ気骨をお持ちです。例えば……
「『社会の病気』を治してくれるのは、患者さんの声なんです。人それぞれの希望にきめ細かく対応していくことで、医療、社会がよくなって行くんです。今、医師はまるで裁判官か管理者です。血圧とかの数値を挙げて、食事に気をつけなさいとか“判決”を下すんです。患者さんのことは、患者さんに聴けばいい。そのなかに、いいアイデアがあるんですよね。どこまでも主人公は患者さん。そして医師はサポーターです。

 

 

 


【解説】

以前の記事でも、沢内村のことは書いてありましたね。

友岡雅弥さんの「地の塩」その37)医療・福祉の効率化の弊害(2024-12-27)

患者が「社会の病気」を治す、という増田医師の話は、勉強になります。

 

獅子風蓮

友岡さんのエッセイ「アネモネとそよ風」を読む 第二話

永澤さんのXで第二話を読めなかったため、下のサイトより引用しました。

 

 


アネモネとそよ風 第2話 会津電力株式会社 
――福島で始まる「電力」と「社会」の未来

 九代続く伝統 

福島県会津地方の北部に位置する喜多方市。
お邪魔したのは大和川酒造。創業は寛政2年(1790年)。当主は代々、佐藤彌右衛門(さとうやうえもん)を名乗り、当代は九代目です。歴代「彌右衛門」さんを訪れた文人墨客たち、高浜虚子や柳原白蓮、武者小路実篤、小川芋銭、河井寛次郎、柳宗悦などが、友情のしるしとして残したものが大和川酒造には残っています。誠実に、淡々と家業を続けてきた「来し方」がうかがえる歴史のしるしが、建物のそこかしこに。
大和川酒造は、奈良から大阪を流れる大和川にルーツをもちます。

江戸時代の初期、河川改修の技術者たちが氾濫を繰り返す大和川の治水に成功し、出来た土地に綿花を植えていきました。歴史に名を残す大和川流域の綿花、木綿は、そのようにして生み出されたのです。そして、東へ東へ。水の豊かな会津地域に定住し、ここでも綿花栽培を成功させます。会津の木綿は、今でも全国的に有名ですね。そして、財力を蓄え、1790年に、酒造業を始めたのです。

喜多方といえば「蔵」、そして「ラーメン」が有名です。「蔵」は、ここで酒・味噌・醤油などの醸造業、そして藍染めが発達していたことに関係します。喜多方ラーメンは、蔵で作られた上質の醤油がベース、そして職人さんを始めとする庶民の食べ物でした。

「蔵なんか時代遅れ。これからはアーケード街だ」という声のなか、蔵の保存(町村合併前、人口3万人足らずの町で、蔵が3000近くあった)に尽くしたのが、先代の彌右衛門さんです。「全国町並保存連盟」のリーダーとして、各地の歴史的町並保存に尽されました。やがて「蔵とラーメンの町・喜多方」は大人気となり、25万人ほどだった観光客が、一気に120万人まで増えたのです。

 

 私が出来ること

長い伝統を誇る家業は、全国新酒鑑評会(酒類総合研究所主催)でこの6年間連続して金賞受賞の実績から分かるように、今も、その技は輝いています。さらに、当代・彌右衛門さんはもう一つの会社の「社長」でもあるのです
会津電力株式会社。2013年8月1日にできたばかりの電力会社です。
2011年3月。東日本大震災、福島第一原発事故。全村避難が続く飯舘村とは、昔から家業でつきあいが深く、他人事とは思えなかった。福島全体への風評被害もある。
「反原発を叫ぶことも大事。しかし、私たちは経営者。原発がない社会を作るため、具体的事業を起こすことが果たすべき責任」
そして生まれたのが会津電力です。また、飯舘村での電力会社を興す事業も着々と前進させていらっしゃいます。しかも、「打つ手」が具体的。まず、技術としてかなり完成している太陽光発電所を立ち上げました。そして、次はバイオマス。
太陽光は、建設したあとはメンテナンス中心なので、あまり雇用を産みません。バイオマスは、木材や食品廃棄物など、発電の原材料を生産するために、地元に持続的雇用を産みます。
ところで、彌右衛門さんは、「地酒」という言葉の生みの親「全国地酒協同組合」の代表理事を務めていますが、とともに、再生可能エネルギー発電に挑戦している団体の集まりである「全国ご当地エネルギー協会」の代表理事を務めています。「地酒」と「ご当地エネルギー」という二つの「ローカル」をリードする彌右衛門さんなのです。

 

ローカルが世界へつながる 

2016年11月3?4日。ドイツ連邦環境庁やICLEI (持続可能性をめざす自治体協議会)などの協力のもと、世界20カ国から数多くの人々が福島市に集い、「第一回 世界ご当地エネルギー会議」が開かれました。(※)
彌右衛門さんは共同代表、会議のまさに中心でした。会議名の「ご当地エネルギー」の英語表記は、〝Community Power〟です。「ローカル」は、顔の見えるつながり、「コミュニティ」でもあるのです。だから、「国」を越えて「世界」へとつながったのです。
そして、それは「私」を超えた「公」=「パブリック」でもあるのです。彌右衛門さんの口ぐせが、「公共的株式会社」です。自社のためではなく、地域のための会社を目指そうというのです。
「パブリック」「コミュニティ」「エコロジカル」――今、日本社会の大きな転換の歩みは、福島から始まっているのかもしれません。

 


【解説】

「パブリック」「コミュニティ」「エコロジカル」――今、日本社会の大きな転換の歩みは、福島から始まっているのかもしれません。

 

福島と多少ご縁のある私としては、この最後の言葉はうれしいです。

 

 

獅子風蓮

友岡さんのエッセイ「アネモネとそよ風」を読む 第一話

 

最近亡くなられた方で、永澤宏之さんという人がいます。

東大法華経研究会の出身で、創価学会副会長の谷川佳樹氏と同期だった方です。

その方のXで、友岡さんのことがよく言及されています。

こんなポストを見つけました。

引用します。

 


Hiro Nagasawa @追悼アカウント
@nanapicasso
在宅ホスピスの穂波の郷クリニックといえば、こういうエッセーがあった。執筆者が一時筆を置かれていた頃、カタログ誌に載ったのを見て、発行元にSNSでのシェアの許可をもらいに飛んで行ったっけ。


アネモネとそよ風 第1話 宮城・穂波の郷クリニック
 ― ―人生を最後まで自分らしく

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風で花粉を運ぶ「風媒花」は英語で「アネモフィリー」。「アネモ」はギリシャ語で「風」を意味します。早春に咲く、アネモネもそれに由来します。昆虫や動物によって拡散する植物は、花が派手で蜜やいい匂いを持ちます。「風媒花」は、概して地味です。でも見つけ出す風があれば、遠くまで飛んでいきます。社会の片隅で、今、すでに未来がはじまっています。「アネモネ」の花言葉の一つは、「信じて待つ」。未来を信じ、見つけ、届けることのできる「風」になりたいと思います。

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    春を届けるミッション


今年の3月上旬、宮城県の大崎市。数人で、ある家の庭に入り込みました。色とりどりの花が植わったプランターを両手に持っていました。

「Kさんに、春を届ける」ミッションの開始です。

大崎の、在宅緩和ケア(ターミナルケア)の医院、穂波の郷クリニックのソーシャルワーカー、大石春美さんから与えられたミッションでした。Kさんは、クリニツクが在宅ケアを届けている患者さんで、口腔ガン末期です。命のほのおは、今日、消えてもおかしくない。

そのKさんがまだ寝ている聞に、庭一面にパンジーを植えて、“春を届け”ようという企てだったのです。

    病院が見放してからがスタート

穂波の郷クリニックは、11年前の7月7日に生まれました。大崎市民病院の副院長をしていた三浦正悦ドクターが病院を辞め、一大石春美さんたちとともに、地域で開業しました。

「手の施しようがありません」と病院で言われ、肩を落とし家に帰っていく患者さんとその家族。病院の治療はそれで終わりかも知れません。でも、患者さんや家族の人生は、それからも続くのです。

病院が見放した患者さんと家族を支える医療が必要ではないのか? 死の瞬間まで、幸せだったと満足できる医療はどういう形なのか?

三浦さん、大石さんたちは考えました。病院が見放してからスタートする医療。それは、狭い意味の「医療」に留まらない形のものとなりました。

基本は「おちゃっこ」です。穂波では「ファイフ・カフェ」と言ってます。一緒にお茶を飲む。文字通り「茶飲み話」の「つぶやきを拾う」ことがスタートです。

末期ガンの患者さんが、ぽつりと言いました。「貧乏だったし、結婚式をしてねえんだ。それが申し訳なくて」

プロジェクトのスタートです。本人には、「劇をするからね。あなたが、新郎役だよ」と言います。クリニックのスタッフとボランティアが走り、レッドカーペット、結婚衣装、ケーキを用意します。

当日、新郎だけが「結婚式の劇」と思い込んでいるなかで式は進み、そして「本物だった!」と明かされました。

命の底からの喜びは人生を変えます。その患者さんは、寿命を二年延ばしました。穂波のチームには、理容師さんや、庭師さんもいます。髪を整え、庭がきれいになったら、患者さんの顔は晴れやかになります。

    最高の笑顔

さて、「春を届ける」プロジェクトのほうはどうなったのか?

Kさんは眠っているはずでした。でも、窓のすぐ外でゴソゴソしているんです。気がつかないはずはありません。

Kさんはカーテンを開けました。

ガラス越しに、私とKさんの目があってしまいました。目を見開くKさん。プランターを手に、ぼう然と立ち尽くす私たち。でも、次の瞬間、Kさんから、大きな大きな、最高の笑顔が返ってきました。

寝たきりだったKさんですが、その日から起き上がり、毎日近所に足を運び世間話をし、5月1日まで命を永らえました。なんと初恋の人への文通まで再開していたのです。

    通い合う豊かな水脈

ネパリ・バザーロの活動に心を寄せていらっしゃる皆様には、穂波の郷クリニックは、原発避難が続く福島浜通りの方々の温泉ご招待(※)で、劇をしている人たちとしてお馴染かもしれません。クリニックには「ほなみ劇団」という、患者さんたちによる劇団もあるのです。90歳を越えた認知症の女優さんもいるので、セリフは覚えられなくて、アドリブの応酬です。

僕が大阪の釜ヶ崎で親しくしている元日雇い労働者の劇団、紙芝居劇むすびと、ほなみ劇団は震災以降交流をしていて、
温泉ご招待の時には、合同で劇をさせていただいています。

余命宣告をされた人、過酷な日雇い労働や、ホームレスにもなったことのある人。そして、理不尽にも故郷を失った人。

あの劇の瞬間の、舞台と観客が一体となった雰囲気はなんと形容できるのでしょうか。心の奥底で、つながっている実感。世間的には、多くを失った人たちです。でも、失われることない、豊かな水脈が流れ通う空間が、いつも奇跡のように現われます。

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友岡 雅哉(ともおか まさや)

大阪府泉大津市生まれ。大阪大学大学院博士課程修了(インド哲学)。趣昧は、音楽鑑賞(J-Pop以外の、あらゆるジャンル)と人に会うこと。数年前には、友人とともに、宮川左近ショウ、芙蓉軒麗花などの、かつて世を風廃した演芸の貴重な音源を復刻。今、全国的に広がる「子ども食堂」のうち、いくつかの初期の立ち上げにも加わる。

 


【解説】

すたぽのエッセイよりも話が具体的で、分かりやすいですね。

 

 

獅子風蓮

友岡雅弥さんの「異者の旗」その98)東北被災地で学んだこと(その4 アスクではなく、 リッスン)


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より

いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 


カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH

ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。

 

 

freak98 - 東北被災地で学んだこと(その4 アスクではなく、 リッスン)

2019年5月16日 投稿
友岡雅弥

 

前回、紹介した緩和ケア・クリニックをもう少し詳しく述べたいと思います。


このクリニックは、在宅の緩和ケアのクリニックです。在宅ホスピスの全国大会を開催する(応援に行きました)など、在宅緩和ケア分野では、全国最先端を行ってます。


院長は、大きな公立病院の副院長を辞して、患者さんが病院から「もう治療はできないので、家に帰ってください」と言われてからの、医療を目指して、ほんとに不眠不休で、でも、 笑顔を忘れずに、がんばっています。


ここって、面白いですよ。ドクターが真ん中に座らない。患者さんの家の庭木をきれいにする庭師さんとか、耳が不自由だけど、ベテラン理容師さんで、患者さんの散髪をしたり、またそのかたは、料理が得意なので、料理をしたり。


ある意味、生活のさまざま場面でサポートする体制が整っているんです。


震災後も、その体制をそのまま被災地に持っていってはりました。

気仙沼と、女川、歌津に行ってはりましたね。


何をするかというと、白衣は着ずに、普通の服で、「お茶っこ」と「足湯」をするんです。

「体の具合悪い人いませんか?」だったら、ある意味、「圧力」をかけちゃう。


それで、「足湯」と「お茶っこ」をして、親しくなる。

気持ちがほぐれたら、「愚痴」がでる。

「~がいたくてねー、こまっちゃうんだ」


それで、病気を発見したことも当然あるのですが、もっと大事なのは、こころの底のつらさや、本音が自然にしゃべれること。


このクリニックの合言葉が、「つぶやきを拾う」。


僕も手伝いで、末期の上顎ガンの患者さんの庭に忍び込んで、眠っているうちに、その庭に春の花をいっぱい植えたこともあります。

カーテンを開けたその患者さんと目が合った時の、そのかたのうれしそうな顔。


寝たきりだったので、庭が荒れて、春の花が見れないうちに、死んじゃうのか、というつぶやきを、数日前にぽろっともらされた。

そのつぶやきを拾い、庭を春の花でいっぱいにしようというプロジェクトが始まり、 僕も手伝うことになったんです。

なんと、そのかたは、その前日も、危なかったぐらい、いつ亡くなっても不思議ではないぐらいで、寝たきりだったのですが、

なんと、ベッドから起きて、近所への散歩も復活、なんと、長距離電車に乗って、初恋の人に会いに行ったり、何ヶ月も寿命を延ばして、ほんとにすっと亡くなりました。


「きく」という言葉には、大きく二つあると思うんです。

一つは、「あなたの名前は?」「どこに住んでるの―?」「何かつらいことないですか―」と聞くこと。

これは、「問う」 ということですよね。アスク、ask です。

災害では、被災者と支援者、医療現場では、患者と医者などなど、「役割」を固定しかねない行為です。

被災者らしい話、患者らしい話が、自然に作られてしまいます。

もう一つは、受け身の「聴く」、リッスン、listen です。

ぼそぼそっという独り言を聴くちから。


このクリニックで開かれる末期患者さんたちの「お茶っこ」や在宅での日常生活。


そこで、自分の存在を消すと、自然に独り言が出てくる、愚痴も出てくる。


愚痴は宝物。ポツリとこぼした愚痴を拾う。独り言を拾う。

そこに、飾らない、ほんとうの「いのちの語り」があるのでしょう。

 

 


【解説】

今回の話は、永澤宏之さんのXで、見つけたこのエッセイに詳しいです。


アネモネとそよ風 第1話

友岡雅弥氏による連載エッセイ『アネモネとそよ風』(フェアトレードカンパニー「ネパリ・バザーロ」の情報誌『ベルダ』掲載)

 

友岡さんが聖教新聞社を退社させられたあとに一般紙に書いたエッセイです。

 


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮

友岡雅弥さんの「異者の旗」その97)東北被災地で学んだこと(その3 ディスポーニブル)


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より

いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 

 


カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH

ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。

 

 

freak97 - 東北被災地で学んだこと(その3 ディスポーニブル)

2019年5月9日 投稿
友岡雅弥

 

阪神淡路大震災のとき、神戸大学医学部の安昌克ドクターは、まさに医療救援の中心者であって、そのことが原因の一つとして、若くして亡くなりました。


安ドクターは、なんども、なんども、このようにおっしゃってます。


「ボランティアは、黙って横にいることです」


だまって横にいて、ハンカチが欲しいときには、静かにそれを手渡す、

一人にして欲しいときには、自然に、消える。


もちろん、それは前回述べた「ヴァニシング・メディエーター」とつながるのですが、ちょっと新しい概念を出します。


'disponibilite'ということについて、少し考えてみたいと思います。社会学や文化人類学などで注目されている概念です。


これは、障がいや生活の困窮など、困難を抱えている人の周囲に、いろんなちからを持つ人が集まってくる、というような状況を示すときに使われる言葉です。


もともと「空き部屋がある」とか、「準備が整う」とかいう意味です。周囲に、そのような「備え」が整ってくることをいいます。


年間500万人の巡礼者が訪れるフランスのルルド。病気直しの奇跡を求めて、難病の人たちとか、障がい者が、多く巡礼に来ます。「老」「病」「死」そして、「障がい」など、社会から隠され、排除されるものが、誰はばかることなく、大手を振って人の目に触れるルルドで、当事者とボランティアが組み上げてきた「文化」が disponible (「空きがある」「用意が出来ている」、この名詞形が 'disponibilite' )です。


つまり、困難に会っている人の「弱さ」が、他の人々の良心や侠気を引き出すわけです。


「弱さ」を中心とした結びつきの強さ。そして、多様性。


もちろん、「何かしたい」という気持ちは、しばしば自己満足、単なる自己実現に陥ります。前回述べた、オーナーシップを無視して、その場の主人公を支援者が演じてしまうわけです。

しかし、まず静かにそばにいる。長くそばにいれば、自己実現欲求は、剥がれていきます。


そして、支援者の側に、困難に陥ってる人が、はばかることなく、本音を言えるような「構え」ができれば、つまり、「すき」が出来れば、その「空間」のなかで、困難に陥っている人が、存分に、自分を発揮出来る可能性がでてきます。


つまり、 'disponibilite' は、相互に存在しあうのです。


同じ病気の人、同じ犯罪被害に会った人などが、集いあい、「愚痴」を言ったり、経験談を話したりする、当事者による、ピア・カウンセリング、ピア・サポートが、とても効果があるのは、そのためです。


東北の被災地に通っているうちに、同じように週一回、宮城県の内陸部(津波被害はなかったけれど、 震度は最もひどかった)から通っている緩和ケア(かつてターミナルケアと呼ばれた)のクリニックの人たちと仲間になりました。


このクリニックは、患者さんと、お茶っこをして、そこでの何気ない会話から、当事者の「願い」を見つける。


そして、クリニック総がかりで、その願いをかなえる。


例えば、「俺なぁ、昔、貧乏だったから結婚式してなくて、母ちゃんに悪いんだー」という一人語りを聞き届け、ほんとに結婚式をする!のです。


ウエディングドレスを縫う人もいる、会場になった個人のお宅の庭の草花の手入れをする人もいる。それぞれの人がそれぞれの人の出来ることを持ち寄るのです。

半年といわれてた余命が、数年延びました。


まさに、'disponibilite' のちからです。

最も「困っているところ」もっとも「弱い」と思われているところ、とつながれば、人はいろんなことができるし、「奇跡」も起こるのです。


逆に、「強い」ところとつながることは、私利私欲と自己実現のつながりですから、弱いのです。

 

 

 

 


【解説】

つまり、困難に会っている人の「弱さ」が、他の人々の良心や侠気を引き出すわけです。「弱さ」を中心とした結びつきの強さ。そして、多様性。

 

昭和の時代の創価学会にも、そういう絆があったような気がします。

今はどうなのでしょう。

 


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮

友岡雅弥さんの「異者の旗」その96)東北被災地で学んだこと(その2 ヴァニシング・メディエーター)


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より

いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 


カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH

ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。

 

 

freak96 - 東北被災地で学んだこと(その2 ヴァニシング・メディエーター)

2019年5月2日 投稿
友岡雅弥

いざ、被災地に飛び込んでみると、いろんなことが分かりました。

いっぱいあると思うんですが、強烈に印象と記憶に残ったのが、日ごろから、障がい者や引きこもり支援をされているNPOや、社会福祉事務所が、迅速に動いていて、小回りもきいたということ。


いくつかの団体の事務所に行くと、支援物資が所狭しとおかれ、ほんとに足の踏み場もないほど。でも、てきぱきと支援を進めていらっしゃる。

そこで、聴いて心に残ったことばが、

「場所に届けるのではなく、人に届ける」。


大きな宅配業者さんのCMに出てくる言葉ですが、

その通りの支援をされていて、個々のかたがたの状態をよく把握していて、そこに的確に、必要なものを必要なときに届けていらっしゃる。


もうカセットコンロの燃料がないころだ、とか、話の端々に出てきて、何百人とかの個人個人の状況を的確に掌握されてるんだなと、思いましたね。


どの団体でも、「日ごろの(障がい者、引きこもり)支援が、こんなときに役立つとは、改めて、自分たちでも驚いています」という感じでした。


それで、支援物資を持っていくのに同行させてもらってるうちに、大事なことに気付いたというか、再認識したというか。


それは、「透明」になること。


「支援-被支援」という、構造を作ってはいけない、困難の渦中にある人に「被支援者の役割」をかぶせてはいけない。

災害救援といえばまず浮かぶ、野田正彰さんから、ずっと教わってたことですが、ほんとに、その通りだなと。


極端な言葉を使えば、

「感謝されてはいけない」 「ありがとうと言われてはいけない」ということです。


そのかたは、たまたま、困難な状態にある人であって、こちらはたまたま支援しているだけなのですね。

ちょっと、雨が降ってきて、たまたま傘を持ってない人がいて、たまたま傘を持っている自分がいる。


しかも、一日だけの雨じゃなくて、かなり長期にわたって支援を受けねばならない。

それを、毎回感謝しては、惨めな気持ちになってしまう。


だから、ほんとに存在を消して、軽く、持っていく。

まあ、たまたま、軽く、「ありがとねー」という場合もあるけれど、わざわざ大仰に、「大感動」させては、こちら支援する側の負け。


それで、僕は、自分の果たすべき役割を「ヴァニシング・メディエーター」と定義したわけです。


お手伝いはするけども、存在は消す。物資や情報があるところから、ないところに運ぶけども、存在は消す。


これは、「オーナーシップ」にもつながります。

復興の主人公は、被災されたかたでなくてはいけません。

スターやアイドルが被災地に激励に行ったというのは、悪い話ではありませんが、それだけでは、主人公はスターやアイドルです。

 

 

 


【解説】

それは、「透明」になること。

「支援-被支援」という、構造を作ってはいけない、困難の渦中にある人に「被支援者の役割」をかぶせてはいけない。

 

よく分かります。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮

友岡雅弥さんの「異者の旗」その95)東北被災地で学んだこと(その1 オーナーシップ)

 

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より

いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 


カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH

ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。

 

 

freak95 - 東北被災地で学んだこと(その1 オーナーシップ)

2019年4月25日 投稿
友岡雅弥

 

よく、ほんとの人助けって何か、という文脈で語られる例が、「魚を与えてはならない、魚を捕る方法を教えねばならない」という与太話です。

問題は、では、そう語る人が「魚を捕る方法」を丁寧に教えているのかな、ということです。

そういう丁寧さのない、「魚を与えてはならない、魚を捕る方法を教えねばならない」という言葉は、単に「俺には関係ない」という心の中を、言い繕うだけの話なのでしょう。

「与える」とか「教える」とかいう言葉遣い自体が、「上から」なのです。

また、「お世話」の実践っていうのが、大前提としてあるわけです。多くは、口だけ。

魚を捕る網をポーンとわたし、技術を一、二回教えて、「あとは自己責任」と突き放したら、あきませんよね。

それは、「無責任」です。突き放した人こそが、「自己責任」を果たしてません。


よく考えると、「水を汲みにいくだけで20キロ」という毎日の生活をしている人って、「助けるべき劣った人」なのか、という話です。


「劣って」はいませんよね。私たちよりがんばっている人ですよね。


でも、ちょっとその生活は大変だから、そこを私たちがなんとかしましょうか、ということです。


もちろん、「対人支援」については、長らくハンセン回復者のお世話と、ホームレス状態にあるかたがたの支援をしてきたので

「オーナーシップ」の概念は、そこそこ体得していたわけです。


「その場での主人公」は、困難の渦中にある人であり、支援する人が、自分が主人公のように振る舞ってはならない。

困難の渦中にいるかたが、自分自身の足で立ち上がったと、実感できるようなお世話を。

というのが「オーナーシップ」の考え方です。「当事者性」とか、「当事者中心」とかいう感じですかね。


たとえば、ハンセン病患者さんの尊厳回復に長年尽力されてきた医師は、長らく海外で、医療支援(ハンセン病ではなく)に携わってこられました。

そして、ご自身でNGOを立ち上げられて、さらに人道的医療支援されています。

なぜ、そのかたが、ご自身でNGOを立ち上げられたかということです。


過去に紛争地域であって、地雷で足を失った人たちがたくさんいらっしゃる所の医療支援やってはりました。アメリカが撒いた地雷を踏んで足の無い人がたくさんいらっしゃったんです。


最初、その医師は、日本政府機関の一員として、派遣されていました。


日本の某巨大財団や日本政府の援助で、日本製の最新軽量車イスがたくさん来たんですよ。


最初、みんな喜んだんですが、あまりに、精巧で、道が悪いから、すぐに故障する。
故障したら、修理部品がない!

結局、使えない!


それでその人は考えたんです。リクシャーありますよね。

壊れたリクシャーから車イスを作ろうと考えたんです。

現地の職人さんに頼んで。そしたら、出来てきたんです。

重くて大きい車イスがね。


でも、自分たちの近所の人が作ってくれた!

自分たちの町の人が作ってくれた!

しかも、壊れたら自分たちで直せる!

――これが、よかったんです。


こういう、ほんとに困っている人の生活や社会に則して、支援をするということは、「国家」や「官僚」みたいな、感じではできないな、と。


それで、その方は、日本に帰ってきて、民間NGOを作ったわけです。


そのかたは、ハンセン回復者支援と、ホームレス支援もされていて、僕はそのかたの考えかたというのを、自分なりに実践してきたわけです。


まあ言えば、その「オーナーシップ」に基づいた支援活動を長年やってきた自分が、 さらに、鍛えられたのが、東日本大震災と福島第一原発事故以降のこの8年だったわけです。

そのつたない歩みを、ちょっとたどっていきたいと思います。

 

 

 

 


【解説】

「その場での主人公」は、困難の渦中にある人であり、支援する人が、自分が主人公のように振る舞ってはならない。

困難の渦中にいるかたが、自分自身の足で立ち上がったと、実感できるようなお世話を。

というのが「オーナーシップ」の考え方です。「当事者性」とか、「当事者中心」とかいう感じですかね。

 

よく分かります。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮