別のところ(獅子風蓮の夏空ブログ)にも書きましたが、佐藤優は、陰謀論者として知られる、副島隆彦氏と仲良く対談しています。
同記事では、副島隆彦について少し調べて書きました。
副島隆彦氏は、とても物知りでするどい指摘もしていますが、どこから聞いてきたのか、突拍子もない陰謀論をきっぱりと言い放つのが特徴のようです。
まさに「玉石混交の人」といえましょう。

副島隆彦氏のことを知るために、代表的著作である、この本を読んでみました。
『属国日本論 2つの帝国の狭間で(決定版)』(PHP研究所、2019.10)

日本はアメリカの属国である!1997年の初版以来、著者が一貫して主張し、論戦を展開してきた「属国日本論」。自らの「主著」に大幅加筆した、渾身の一冊!
かいつまんで紹介します。
副島隆彦氏の著書の特徴として、術語の英語訳を逐一書いてあり、ルビで英語訳を振っていることもあります。
そのことで、独特のアカデミックな雰囲気を醸し出しているのですが、内容を検証する当記事においては、煩雑のため、()内の言いかえとルビを省略してあります。
本書の正確な意味と雰囲気を味わいたい人は、実物をぜひお読みください。
『属国日本論』
□まえがき
□第1部 属国日本論 日本の本当の姿
□第2部 世界覇権国アメリカ
■第3部 属国日本の近代史
□1)幕末・明治期編
■2)敗戦まで
□あとがき
『属国日本論』
第3部 属国日本の近代史
2)敗戦まで
日本は、20世紀に入ると、対ソビエト・ロシア包囲網の極東における役割を分担させられた。ところが、そのことを自覚せずに、地域覇権(大東亜共栄圏構想)に突き進んで、中国にまで進出(侵略)した。それは米英が指導した「国共合作」によって阻止され、やがて大敗北へと至った。
伊藤博文は、日露戦争(1904~5年)の後は、日本国内のことは、山県有朋に任せて、自分は、朝鮮経営と、満州進出計画に専念した。朝鮮王の長男坊のご養育係を買って出た。日本をロシア帝国の南下の脅威から守るためには、朝鮮と満州を防波堤としなければならないと考えた。
これは、当時の大英帝国が、対ロシア包囲網としておしすすめていた世界戦略の一環であった。伊藤は本書で見て来た通り、大英帝国(欧州ロスチャイルド財閥)が育てた日本の最高人材である。
しかし、伊藤は、陸軍を握った山県有朋らの頑迷な国内勢力を甘く見た。伊藤は、1909年(日韓併合の前年)に、山県有朋に哈爾濱駅頭で暗殺された。交渉相手のロシア蔵相の目の前であった。駅の屋根の上にいた日本陸軍の狙撃隊の射撃によるものだ。犯人とされた朝鮮人烈士安重根(アンジョングン)は、替え玉である。
ユーラシア大陸全体を支配しようとするロシアに対して、海洋帝国としてのイギリスは、大陸の縁をずっとたどるように、フィンランド→ポーランド→ギリシャ→トルコ→アフガニスタン→チベット→満州→日本という、防衛線を築いた。このことを研究する学問を地政学と言う。そして、これは当時の言葉で、「ザ・グレート・ゲーム」と呼ばれる。これの現代版が、ソビエト・ロシアとアメリカ合衆国の「東西冷戦」であった。
ユーラシア大陸のヘリのことを、「リム」と呼ぶ。リムは現在では米軍によって「環太平洋」とも訳される「リムパック」という言葉に表れている。リムパック は、米海軍主導アジアの各国の海軍の合同軍事演習だ。日本の海上自衛隊も参加している。
アメリカは、地政学的な戦略思想をイギリス帝国から引き継いだ。そして、1950年代からソビエト・ロシアへの包囲網を築いたのである。日本は、東アジア地域で、ロシア及び中国と拮抗する役割を与えられたアメリカの忠実なる属国である。
世界覇権をめぐるイギリスとアメリカの対立
イギリスは、着々と準備した。1902年に、日本を重視して日英同盟を結んだ。日本に軍事援助をすると約束した。このあとロシアとの間で起こったのが、1904年の日露戦争である。
日本はイギリス政府と、J・P・モルガン(アメリカにおけるロスチャイルド家の系統の金融財閥)の軍事支援があったので、なんとかロシア軍を陸軍、海軍両方で打ち破ることができた。
この後、アメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトが、無理やり介入して来て、アメリカ政府の仲裁で、ポーツマス講和条約をロシアと結んだ。日本は南満州鉄道の利権を得て、南満州を領土にした。この時から日本は、世界の動きを冷静に見る目を失って、軍事的な拡張路線を突き進んだ。そして40年後の、1945年の敗戦に至った。
それが、「大東亜共栄圏」構想であった。これは、世界覇権国に対する地域的覇権主義である。
イギリスを優先するかアメリカとの同盟に入るかの選択
伊藤博文が1909年に、ハルビンで暗殺された後も、僚友の井上馨は政界に残っていた。井上と桂太郎首相(同じく長州閥)は、日本が支配権を握った南満州鉄道の経営をめぐって、アメリカの鉄道王エドワード・ハリマンからの、「米日での共同経営の申し出」を承諾する旨の覚書を交わした。
ところが、1905年10月に、ポーツマス講和条約交渉から、急遽帰って来た全権大使の小村寿太郎(宮崎県出身)が、この話をぶちこわしにしてしまった。小村寿太郎はセオドア・ルーズヴェルト大統領の子分であり、ロックフェラー財団の意見で動かされた男だ。
このときの小村寿太郎の行動は批判されるべきだ。もしあのとき、ハリマン財閥(英ロスチャイルド系)と満州共同開発が行われていれば、日本が満州進出問題で、国際社会の指弾を浴びることがなく、その後孤立して、太平洋戦争に打って出ることもなかったからである。
ここで、私たちが鋭く気づくべきは、イギリスとアメリカの世界覇権をめぐる対立と緊張ということである。日本はそれに翻弄されたのだ。イギリスの国力が決定的に衰退しアメリカの覇権を認めざるを得なくなったのは、1920年代である。
それまでは、実は、アメリカ国内の繊維産業や鉄鋼業などの大企業の資本は、まだまだイギリス貴族及びイギリスの投資家たちに握られていたのである。
それが、石油王ロックフェラー家や、ヴァンダービルド家、鉄鋼王カーネギー家や、金融王モルガン家などが出現して、徐々にイギリス・ロスチャイルド財閥の支配を脱していった。
そして、世界大恐慌(1929年)の前のアメリカの空前の大繁栄の時に、イギリスから、アメリカに世界覇権が移った、と考えるべきなのだ。
1921年に、ワシントン条約を理由に、アメリカ政府の圧力で、日本政府は、「日英同盟」を廃棄させられている。おそらく、このとき極東(東アジア)地域をも、イギリスから奪って自分の支配領域にしたアメリカ帝国の意思が見られる。セオドア・ローズヴェルト大統領がポーツマス講和交渉でイギリスをおしのけて、ロシアと日本の仲介をしたのもこの流れだ。
小村寿太郎と金子堅太郎が、ロックフェラー財閥の日本における手先(エージェント)である。その前の1898年に、米西戦争で、アメリカは、18紀までは世界覇権国だったスペイン帝国から、フィリピンとカリブ海諸島を奪い取っている。アメリカの海外拡張主義(世界進出戦略)はこの時、始まったのである。
日露戦争に勝った1905年の時点で、日本の取るべき針路として、イギリスとの同盟を優先するか、それともアメリカと新たな同盟に入るか、の選択を迫られていた。ところが、真実は、アメリカは日本を突き放した。アメリカは、日本を良導せずに、計画的に暴走させたのである。この時の選択を誤ったために、日本は「大東亜共栄圏構想」に盲目的に突き進んでしまった。
この大きな世界の対立構図を理解していた日本の指導者であった原敬、高橋是清(三井ロスチャイルド系の優れた政治家たち)が、次々と暗殺されていった事実が重い。イギリス覇権の衰退と、アメリカへの乗り換えが、うまくいかなかった。そのために、日本は、その後の、国家の舵取りを失敗して行った、と言うにとどめておきたい。
なぜ井上馨が、小村寿太郎と激しく争ってでも、世界の情勢を見極めて、ロスチャイルド財閥の、「世界一周鉄道」構想への支持を国内でとりつけることができなかったのか、が残念である。このとき、日本に人材不足が生じたか。あるいは世界の動きを教える人物に恵まれなかったのだろう。
不平等条約の改正について
日本は、1880年代(明治20年代)の国内が安定した時期に、憲法や他の近代法律を次々に作った。これらは、国内法制の確立の必要というよりも、不平等条約(治外法権と関税自主権の両方において)を、なんとか撤廃したかったからである。
早くも1871(明治4)年に、岩倉具視使節団が、この件で、欧州アメリカに「視察」、「外遊」した。この使節団の本当の理由は、おしつけられた列強との不平等条約をなんとしても、改正してもらいたかったからである。
この使節団には木戸孝允や大久保利通らが同行している。各国政府と条約改正について渡り合った。だが、けんもほろろに、全く相手にしてもらえなかった。日本の遣欧使節団は、子供の使いと同じだった。
その理由は簡単で、「お前の国は、公衆浴場で、男女がいっしょに風呂に入るそうではないか。そういう未開の国で、文明人たる我が国民が、野蛮な法律で処罰されてはかなわない」というものであった。
それで、民法、刑法その他の法律を急いで作ったのである。作ったといっても、本当に、当時のドイツ法典(G・B・G)をほとんどそのまま翻訳した。梅謙次郎と富井政章が、条文を一条訳すたびに、それを馬車で役所まで運ぶという急ごしらえであった。
対外的に恥をかかないようにすること。これが明治太政官政府の何よりの方針だった。自由民権運動の盛り上がりが、憲法制定につながったというのは、ものごとの一側面である。
(つづく)
【解説】
しかし、伊藤は、陸軍を握った山県有朋らの頑迷な国内勢力を甘く見た。伊藤は、1909年(日韓併合の前年)に、山県有朋に哈爾濱駅頭で暗殺された。交渉相手のロシア蔵相の目の前であった。駅の屋根の上にいた日本陸軍の狙撃隊の射撃によるものだ。犯人とされた朝鮮人烈士安重根(アンジョングン)は、替え玉である。
伊藤博文は山県有朋に哈爾濱駅頭で暗殺されたというのです。
いかにも陰謀論でしょう。
獅子風蓮
