獅子風蓮のつぶやきブログ

創価を卒業し、組織にしばられず、いろいろ考えたりしたことや、読書感想などを書いています。

副島隆彦『属国日本論』を読む その13

別のところ(獅子風蓮の夏空ブログ)にも書きましたが、佐藤優は、陰謀論者として知られる、副島隆彦氏と仲良く対談しています。
同記事では、副島隆彦について少し調べて書きました。
副島隆彦氏は、とても物知りでするどい指摘もしていますが、どこから聞いてきたのか、突拍子もない陰謀論をきっぱりと言い放つのが特徴のようです。
まさに「玉石混交の人」といえましょう。

 



副島隆彦氏のことを知るために、代表的著作である、この本を読んでみました。

『属国日本論 2つの帝国の狭間で(決定版)』(PHP研究所、2019.10)

日本はアメリカの属国である!1997年の初版以来、著者が一貫して主張し、論戦を展開してきた「属国日本論」。自らの「主著」に大幅加筆した、渾身の一冊!

 

かいつまんで紹介します。


副島隆彦氏の著書の特徴として、術語の英語訳を逐一書いてあり、ルビで英語訳を振っていることもあります。
そのことで、独特のアカデミックな雰囲気を醸し出しているのですが、内容を検証する当記事においては、煩雑のため、()内の言いかえとルビを省略してあります。

本書の正確な意味と雰囲気を味わいたい人は、実物をぜひお読みください。

 


『属国日本論』
□まえがき
□第1部 属国日本論 日本の本当の姿
□第2部 世界覇権国アメリカ
■第3部 属国日本の近代史
 □1)幕末・明治期編
 ■2)敗戦まで

□あとがき

 


『属国日本論』
第3部 属国日本の近代史
 2)敗戦まで

日本は、20世紀に入ると、対ソビエト・ロシア包囲網の極東における役割を分担させられた。ところが、そのことを自覚せずに、地域覇権(大東亜共栄圏構想)に突き進んで、中国にまで進出(侵略)した。それは米英が指導した「国共合作」によって阻止され、やがて大敗北へと至った。


伊藤博文は、日露戦争(1904~5年)の後は、日本国内のことは、山県有朋に任せて、自分は、朝鮮経営と、満州進出計画に専念した。朝鮮王の長男坊のご養育係を買って出た。日本をロシア帝国の南下の脅威から守るためには、朝鮮と満州を防波堤としなければならないと考えた。
これは、当時の大英帝国が、対ロシア包囲網としておしすすめていた世界戦略の一環であった。伊藤は本書で見て来た通り、大英帝国(欧州ロスチャイルド財閥)が育てた日本の最高人材である。
しかし、伊藤は、陸軍を握った山県有朋らの頑迷な国内勢力を甘く見た。伊藤は、1909年(日韓併合の前年)に、山県有朋に哈爾濱駅頭で暗殺された。交渉相手のロシア蔵相の目の前であった。駅の屋根の上にいた日本陸軍の狙撃隊の射撃によるものだ。犯人とされた朝鮮人烈士安重根(アンジョングン)は、替え玉である。

ユーラシア大陸全体を支配しようとするロシアに対して、海洋帝国としてのイギリスは、大陸の縁をずっとたどるように、フィンランド→ポーランド→ギリシャ→トルコ→アフガニスタン→チベット→満州→日本という、防衛線を築いた。このことを研究する学問を地政学と言う。そして、これは当時の言葉で、「ザ・グレート・ゲーム」と呼ばれる。これの現代版が、ソビエト・ロシアとアメリカ合衆国の「東西冷戦」であった。
ユーラシア大陸のヘリのことを、「リム」と呼ぶ。リムは現在では米軍によって「環太平洋」とも訳される「リムパック」という言葉に表れている。リムパック は、米海軍主導アジアの各国の海軍の合同軍事演習だ。日本の海上自衛隊も参加している。
アメリカは、地政学的な戦略思想をイギリス帝国から引き継いだ。そして、1950年代からソビエト・ロシアへの包囲網を築いたのである。日本は、東アジア地域で、ロシア及び中国と拮抗する役割を与えられたアメリカの忠実なる属国である。


世界覇権をめぐるイギリスとアメリカの対立

イギリスは、着々と準備した。1902年に、日本を重視して日英同盟を結んだ。日本に軍事援助をすると約束した。このあとロシアとの間で起こったのが、1904年の日露戦争である。
日本はイギリス政府と、J・P・モルガン(アメリカにおけるロスチャイルド家の系統の金融財閥)の軍事支援があったので、なんとかロシア軍を陸軍、海軍両方で打ち破ることができた。

この後、アメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトが、無理やり介入して来て、アメリカ政府の仲裁で、ポーツマス講和条約をロシアと結んだ。日本は南満州鉄道の利権を得て、南満州を領土にした。この時から日本は、世界の動きを冷静に見る目を失って、軍事的な拡張路線を突き進んだ。そして40年後の、1945年の敗戦に至った。
それが、「大東亜共栄圏」構想であった。これは、世界覇権国に対する地域的覇権主義である。


イギリスを優先するかアメリカとの同盟に入るかの選択

伊藤博文が1909年に、ハルビンで暗殺された後も、僚友の井上馨は政界に残っていた。井上と桂太郎首相(同じく長州閥)は、日本が支配権を握った南満州鉄道の経営をめぐって、アメリカの鉄道王エドワード・ハリマンからの、「米日での共同経営の申し出」を承諾する旨の覚書を交わした。
ところが、1905年10月に、ポーツマス講和条約交渉から、急遽帰って来た全権大使の小村寿太郎(宮崎県出身)が、この話をぶちこわしにしてしまった。小村寿太郎はセオドア・ルーズヴェルト大統領の子分であり、ロックフェラー財団の意見で動かされた男だ。

このときの小村寿太郎の行動は批判されるべきだ。もしあのとき、ハリマン財閥(英ロスチャイルド系)と満州共同開発が行われていれば、日本が満州進出問題で、国際社会の指弾を浴びることがなく、その後孤立して、太平洋戦争に打って出ることもなかったからである。

ここで、私たちが鋭く気づくべきは、イギリスとアメリカの世界覇権をめぐる対立と緊張ということである。日本はそれに翻弄されたのだ。イギリスの国力が決定的に衰退しアメリカの覇権を認めざるを得なくなったのは、1920年代である。
それまでは、実は、アメリカ国内の繊維産業や鉄鋼業などの大企業の資本は、まだまだイギリス貴族及びイギリスの投資家たちに握られていたのである。
それが、石油王ロックフェラー家や、ヴァンダービルド家、鉄鋼王カーネギー家や、金融王モルガン家などが出現して、徐々にイギリス・ロスチャイルド財閥の支配を脱していった。
そして、世界大恐慌(1929年)の前のアメリカの空前の大繁栄の時に、イギリスから、アメリカに世界覇権が移った、と考えるべきなのだ。

1921年に、ワシントン条約を理由に、アメリカ政府の圧力で、日本政府は、「日英同盟」を廃棄させられている。おそらく、このとき極東(東アジア)地域をも、イギリスから奪って自分の支配領域にしたアメリカ帝国の意思が見られる。セオドア・ローズヴェルト大統領がポーツマス講和交渉でイギリスをおしのけて、ロシアと日本の仲介をしたのもこの流れだ。
小村寿太郎と金子堅太郎が、ロックフェラー財閥の日本における手先(エージェント)である。その前の1898年に、米西戦争で、アメリカは、18紀までは世界覇権国だったスペイン帝国から、フィリピンとカリブ海諸島を奪い取っている。アメリカの海外拡張主義(世界進出戦略)はこの時、始まったのである。

日露戦争に勝った1905年の時点で、日本の取るべき針路として、イギリスとの同盟を優先するか、それともアメリカと新たな同盟に入るか、の選択を迫られていた。ところが、真実は、アメリカは日本を突き放した。アメリカは、日本を良導せずに、計画的に暴走させたのである。この時の選択を誤ったために、日本は「大東亜共栄圏構想」に盲目的に突き進んでしまった。
この大きな世界の対立構図を理解していた日本の指導者であった原敬、高橋是清(三井ロスチャイルド系の優れた政治家たち)が、次々と暗殺されていった事実が重い。イギリス覇権の衰退と、アメリカへの乗り換えが、うまくいかなかった。そのために、日本は、その後の、国家の舵取りを失敗して行った、と言うにとどめておきたい。
なぜ井上馨が、小村寿太郎と激しく争ってでも、世界の情勢を見極めて、ロスチャイルド財閥の、「世界一周鉄道」構想への支持を国内でとりつけることができなかったのか、が残念である。このとき、日本に人材不足が生じたか。あるいは世界の動きを教える人物に恵まれなかったのだろう。


不平等条約の改正について

日本は、1880年代(明治20年代)の国内が安定した時期に、憲法や他の近代法律を次々に作った。これらは、国内法制の確立の必要というよりも、不平等条約(治外法権と関税自主権の両方において)を、なんとか撤廃したかったからである。

早くも1871(明治4)年に、岩倉具視使節団が、この件で、欧州アメリカに「視察」、「外遊」した。この使節団の本当の理由は、おしつけられた列強との不平等条約をなんとしても、改正してもらいたかったからである。
この使節団には木戸孝允や大久保利通らが同行している。各国政府と条約改正について渡り合った。だが、けんもほろろに、全く相手にしてもらえなかった。日本の遣欧使節団は、子供の使いと同じだった。
その理由は簡単で、「お前の国は、公衆浴場で、男女がいっしょに風呂に入るそうではないか。そういう未開の国で、文明人たる我が国民が、野蛮な法律で処罰されてはかなわない」というものであった。
それで、民法、刑法その他の法律を急いで作ったのである。作ったといっても、本当に、当時のドイツ法典(G・B・G)をほとんどそのまま翻訳した。梅謙次郎と富井政章が、条文を一条訳すたびに、それを馬車で役所まで運ぶという急ごしらえであった。
対外的に恥をかかないようにすること。これが明治太政官政府の何よりの方針だった。自由民権運動の盛り上がりが、憲法制定につながったというのは、ものごとの一側面である。


(つづく)

 


解説

しかし、伊藤は、陸軍を握った山県有朋らの頑迷な国内勢力を甘く見た。伊藤は、1909年(日韓併合の前年)に、山県有朋に哈爾濱駅頭で暗殺された。交渉相手のロシア蔵相の目の前であった。駅の屋根の上にいた日本陸軍の狙撃隊の射撃によるものだ。犯人とされた朝鮮人烈士安重根(アンジョングン)は、替え玉である。

 

伊藤博文は山県有朋に哈爾濱駅頭で暗殺されたというのです。

いかにも陰謀論でしょう。

 


獅子風蓮

『創価学会・公明党の研究』を読む その32

以前、こんな記事を書きました。

新党・中道とは創価学会・公明党の「撤退戦」のための道具だったのか?(2026-02-05)

この記事の解説でも言及しましたが、中野潤『創価学会・公明党の研究』(岩波書店 2016)はいささか古い本ですが、現在の公明党の連立離脱・衆議院小選挙区からの撤退を理解するためには必読の著書です。
この本によると、創価学会は、会員の負担を考え、いつか衆議院から撤退することを考えていましたが、2015年11月の「政変」(正木理事長更迭事件)にからんで、先延ばしにされていたという事情があったようです。

そこで、この本を検証してみたいと思います。

 

創価学会・公明党の研究-自公連立政権の内在論理


暴走の歯止め役か、付き従う選挙マシンか。深まる創価学会と公明党の一体化に伴い、ますます自民党は選挙において創価学会への依存度を高めていく。はじめて明かされる創価学会と政界の攻防。

 


創価学会・公明党の研究

□序 章 最大の目的は「選挙協力」

□第1章 非自民連立政権の失敗から自公連立へ

□第2章 公明党の歴史的変遷

■第3章 創価学会と公明党の内部構造
 □池田大作と公明党
 □頻繁に協議を開くようになった公明党と創価学会
 □創価学会の「琴線に触れるテーマ」
 □公明党の人事はどのように決まるのか
 □新人発掘は地元の学会組織から
 □財政面でも創価学会に支えられる公明党
 □宗門戦争 日蓮正宗との決別
 □社会の「嫌われ者」からの脱却と自公連立政権
 □公明党の得票数・率の推移
 □公明党の得票減を下支えする自民党との協力
 ■進む学会員の高齢化が突きつける選挙戦の現実

□第4章 公明党の苦難の時代の始まりと創価学会「政治縮小路線」への模索

□第5章 幻の「民公連携」

□第6章 潰えた選挙制度改革という悲願

□第7章 「ポスト池田」レースと第二次安倍政権下の自公連立

□第8章 解釈改憲を認めた「平和の党」

□第9章 自民・公明の力関係と「維新」

□第10章 2016年参院選へ、創価学会の必死の攻勢

□終 章 創価学会・公明党はどこに向かうのか

 


第3章 創価学会と公明党の内部構造
  ――深化する一体化

進む学会員の高齢化が突きつける選挙戦の現実

それではなぜ、2007年参院選以降、公明党の得票数が減少しているのだろうか。これについては、創価学会が危機感を強めて詳細な分析をしており、詳しくは後で紹介するが、一つは活動的な学会員の高齢化であり、もう一つは自民党、とりわけ森内閣以降の旧清和会(=福田派の流れを汲む派閥)政権下で、政策面で公明党らしさが失われ、支持者から見放された結果だという。とりわけ、学会員の高齢化は深刻で、1950年代から60年代にかけて激しい折伏と選挙活動で支持を広げてきた経験を持つ百戦錬磨の運動員の多くが70代以上になり、集票力が急激に低下しているというのだ。
確かに1960年に20歳だった学会員は2010年に70歳を迎えている。創価学会は、2007年に会員世帯数を827万世帯としてから数字を変えていない。学会幹部によれば会員の実数は高会員の死亡などで微減する年もあるとはいえ、少なくとも大きく減ってはいないという。だが、新規の入会者は親が学会員の「二世会員」が多く、会員としての活動は行なっていても、かつてのように学会員以外の票を一人で何票も獲得してくるような熱心な活動家は確実に減っているとみられる。
2016年7月の参院選での公明党の得票数は757万票余で、3年前の参院選に比べて約5000票の微増だった。だが、この選挙では、公明党が候補者を擁立した7選挙区のうち東京と大阪以外の五つの選挙区で、自民党が自党の候補と競合するにもかかわらず、公明党の候補者に推薦を出して首相の安倍が応援に入ったり、官房長官の菅義偉が公明党候補のために自民党支持の業界団体を集めて支持を訴えるなど、自公の選挙協力は一段と深化していた。そうした中でも得票数がほぼ横ばいだったということは、創価学会の実力=集票能力はさらに低下して現在、600万票余りに過ぎないということになる。
こうした厳しい状況について、公明党幹部はこの参院選後に「選挙の戦い方について何か新機軸を打ち出さないとじり貧だ」と語ったが、学会幹部は、「日本社会全体がそうであるように学会員の一層の高齢化は避けられないし、若い会員に昔のような選挙戦をさせようと思っても無理な話だ」ともらす。
それゆえ、創価学会では選挙に関して「戦線」を縮小し、衆院の小選挙区から撤退することなどで会員の負担を減らすべきではないかという、これまで繰り返されてきた議論が再度、浮上する可能性があるのだ。

 


解説

こうした厳しい状況について、公明党幹部はこの参院選後に「選挙の戦い方について何か新機軸を打ち出さないとじり貧だ」と語ったが、学会幹部は、「日本社会全体がそうであるように学会員の一層の高齢化は避けられないし、若い会員に昔のような選挙戦をさせようと思っても無理な話だ」ともらす。
それゆえ、創価学会では選挙に関して「戦線」を縮小し、衆院の小選挙区から撤退することなどで会員の負担を減らすべきではないかという、これまで繰り返されてきた議論が再度、浮上する可能性があるのだ。

 

こうして、公明党の得票数は「じり貧」となっていき、このたびの衆院からの撤退に続いていくのです。

新党・中道とは創価学会・公明党の「撤退戦」のための道具だったのではないかと考えるのはそういう経緯があるからです。


獅子風蓮

『創価学会・公明党の研究』を読む その31

以前、こんな記事を書きました。

新党・中道とは創価学会・公明党の「撤退戦」のための道具だったのか?(2026-02-05)

この記事の解説でも言及しましたが、中野潤『創価学会・公明党の研究』(岩波書店 2016)はいささか古い本ですが、現在の公明党の連立離脱・衆議院小選挙区からの撤退を理解するためには必読の著書です。
この本によると、創価学会は、会員の負担を考え、いつか衆議院から撤退することを考えていましたが、2015年11月の「政変」(正木理事長更迭事件)にからんで、先延ばしにされていたという事情があったようです。

そこで、この本を検証してみたいと思います。

 

創価学会・公明党の研究-自公連立政権の内在論理


暴走の歯止め役か、付き従う選挙マシンか。深まる創価学会と公明党の一体化に伴い、ますます自民党は選挙において創価学会への依存度を高めていく。はじめて明かされる創価学会と政界の攻防。

 


創価学会・公明党の研究

□序 章 最大の目的は「選挙協力」

□第1章 非自民連立政権の失敗から自公連立へ

□第2章 公明党の歴史的変遷

■第3章 創価学会と公明党の内部構造
 □池田大作と公明党
 □頻繁に協議を開くようになった公明党と創価学会
 □創価学会の「琴線に触れるテーマ」
 □公明党の人事はどのように決まるのか
 □新人発掘は地元の学会組織から
 □財政面でも創価学会に支えられる公明党
 □宗門戦争 日蓮正宗との決別
 □社会の「嫌われ者」からの脱却と自公連立政権
 □公明党の得票数・率の推移
 ■公明党の得票減を下支えする自民党との協力
 □進む学会員の高齢化が突きつける選挙戦の現実

□第4章 公明党の苦難の時代の始まりと創価学会「政治縮小路線」への模索

□第5章 幻の「民公連携」

□第6章 潰えた選挙制度改革という悲願

□第7章 「ポスト池田」レースと第二次安倍政権下の自公連立

□第8章 解釈改憲を認めた「平和の党」

□第9章 自民・公明の力関係と「維新」

□第10章 2016年参院選へ、創価学会の必死の攻勢

□終 章 創価学会・公明党はどこに向かうのか

 


第3章 創価学会と公明党の内部構造
  ――深化する一体化

公明党の得票減を下支えする自民党との協力

それが、2000年代前半になると800万票台の得票を叩き出し、学会世帯数を再び上回ることもあった。ちなみに過去最高の得票である2005年衆院選の898万票余りを獲得した時の創価学会の会員世帯数は821万世帯で、得票数が学会世帯数を大きく上回った。なぜ、それが可能になったのであろうか。それは、まちがいなく1999年に公明党が自民党と連立を組んだことによる選挙協力の効果だった。
自公連立政権発足以降、公明党は全国300の衆院小選挙区のうち8~9つの選挙区では公認候補を立てるが、そこでは自民党が候補者の擁立を見送って公明党候補を推薦する。そのかわり、公明党はそれ以外の二百数十の小選挙区で自民党候補を推薦するという協力体制をとってきた。だが、それではあまりにもアンバランスな協力になるということで、公明党は各小選挙区で自民党候補の個人後援会や支援企業、業界団体などに対して、自民党候補を支援する見返りに比例区では公明党に投票してほしいというバーター協力を持ち掛けてきた。この自公の選挙協力によって公明党は比例票を大幅に増やしていたのだ。
この選挙協力は、当初、自民党支持者に公明党や創価学会へのアレルギーが強かったため、なかなか進まなかったが、回を重ねるごとに深化している。実際の選挙協力では、地元の公明党や学会の幹部が自民党候補の陣営から後援会名簿を提出させ、それをもとに学会員が繰り返し電話をかけて「小選挙区は自民の○○、比例は公明の○○へ」と呼びかけるほか、自民党候補の街頭演説などに公明党の地方議員が同行し、比例区の公明党候補の名前を連呼して支持を訴えるといった光景もあたりまえのようになっている。後援会名簿の提出については当初、自民党側に相当抵抗感が強かったが、今ではあたりまえのように行われ、電話への反応が悪いと、公明党側が自民党の候補者本人や後援会幹部に改善を申し入れたりもしている。
両党の選挙協力は、地方議会の議員選挙でも行われるようになっている。創価学会が県議選や市議選で自民党候補を支援する見返りに、その県議や市議から後援会名簿を提出させ、それを衆院選や参院選における比例区の公明票の獲得のための電話作戦で使うといったケースも少なくない。また、埼玉県や愛知県など公明党が参院の選挙区で候補者を立てる地域では、自分の選挙で学会の支援を受け地方議員たちが、地域の学会幹部から「公明党候補が苦戦しているので、比例区に加えて選挙区も公明党の支援を」と迫られ、逡巡すると「次回のあなたの選挙は2年後でしたかね」と半ば脅されるケースもあるという。埼玉県のある自民党市議は、「あんなことを言われると自分の選挙が心配になって断り切れない。おかしいと思いつつ、選挙区でも公明党候補を支援せざるを得なかった」と打ち明けた。
ちなみに、創価学会は、2000年代に入ると、自民党支持者が公明党に投票することへの心理的抵抗を薄めるため、比例区の投票を政党名ではなく、その地域を重点地区とする比例候補の個人名で行うよう依頼することを徹底させている。
それでは、公明党の比例票のうち、どの程度が自民党から流入した票なのであろうか。衆院選で見ると、公明党が初めて自民党との連立政権に加わった翌年2000年の衆院選の比例の得票は776万票だった。この時は、まだ選挙協力があまり進んでいなかったと見られる。それがその2回後の2005年の衆院選では898万票に増えるわけで、投票率の違いを無視すれば、単純計算でその差の122万票が自民党支持者から得た票だということになる。これは参院選の結果で見てもほぼ同じであり、公明党は自民党との選挙協力で100万~150万票程度を上乗せしていることが浮き彫りになる。
実際、この時期、公明党の比例票の増加数が多い都道府県を調べると、九州や中国地方、北部関東など、保守地盤が厚く創価学会の組織が弱い地域が上位を占めている。自民党の組織が強い地方部で、公明党が自民党の支持層から比例票を得られるようになっていることを裏付けるもので、バーター協力の成果がはっきりと示されているといえる。
自民党との選挙協力が年々深化していることは、マスコミ各社が行う出口調査の結果からも裏付けられる。「自民党支持」と答えた有権者のうち、「比例区で公明党に投票した」と回答した率は、2000年衆院選では3~4%だったが、その率は徐々に増えて2014年衆院選や2016年参院選では7~8%まで上昇している。このデータからも、公明党の比例の得票数のうち、自民党支持者の票が100万~150万票程度であることが裏付けられる。

 


解説

実際の選挙協力では、地元の公明党や学会の幹部が自民党候補の陣営から後援会名簿を提出させ、それをもとに学会員が繰り返し電話をかけて「小選挙区は自民の○○、比例は公明の○○へ」と呼びかけるほか、自民党候補の街頭演説などに公明党の地方議員が同行し、比例区の公明党候補の名前を連呼して支持を訴えるといった光景もあたりまえのようになっている。後援会名簿の提出については当初、自民党側に相当抵抗感が強かったが、今ではあたりまえのように行われ、電話への反応が悪いと、公明党側が自民党の候補者本人や後援会幹部に改善を申し入れたりもしている。

 

このように投票を相互に依存する形の連立政権とは、なんだか理念なしの利害関係だけみたいですね。

醜い打算の上の、選挙互助会とでもいいましょうか。

少なくとも、純粋な信仰心とは相いれないような気が……

まあ、信仰的には、公明党は政権離脱して良かったような気がします。


獅子風蓮

『創価学会・公明党の研究』を読む その30

以前、こんな記事を書きました。

新党・中道とは創価学会・公明党の「撤退戦」のための道具だったのか?(2026-02-05)

この記事の解説でも言及しましたが、中野潤『創価学会・公明党の研究』(岩波書店 2016)はいささか古い本ですが、現在の公明党の連立離脱・衆議院小選挙区からの撤退を理解するためには必読の著書です。
この本によると、創価学会は、会員の負担を考え、いつか衆議院から撤退することを考えていましたが、2015年11月の「政変」(正木理事長更迭事件)にからんで、先延ばしにされていたという事情があったようです。

そこで、この本を検証してみたいと思います。

 

創価学会・公明党の研究-自公連立政権の内在論理


暴走の歯止め役か、付き従う選挙マシンか。深まる創価学会と公明党の一体化に伴い、ますます自民党は選挙において創価学会への依存度を高めていく。はじめて明かされる創価学会と政界の攻防。

 


創価学会・公明党の研究

□序 章 最大の目的は「選挙協力」

□第1章 非自民連立政権の失敗から自公連立へ

□第2章 公明党の歴史的変遷

■第3章 創価学会と公明党の内部構造
 □池田大作と公明党
 □頻繁に協議を開くようになった公明党と創価学会
 □創価学会の「琴線に触れるテーマ」
 □公明党の人事はどのように決まるのか
 □新人発掘は地元の学会組織から
 □財政面でも創価学会に支えられる公明党
 □宗門戦争 日蓮正宗との決別
 □社会の「嫌われ者」からの脱却と自公連立政権
 ■公明党の得票数・率の推移
 □公明党の得票減を下支えする自民党との協力
 □進む学会員の高齢化が突きつける選挙戦の現実

□第4章 公明党の苦難の時代の始まりと創価学会「政治縮小路線」への模索

□第5章 幻の「民公連携」

□第6章 潰えた選挙制度改革という悲願

□第7章 「ポスト池田」レースと第二次安倍政権下の自公連立

□第8章 解釈改憲を認めた「平和の党」

□第9章 自民・公明の力関係と「維新」

□第10章 2016年参院選へ、創価学会の必死の攻勢

□終 章 創価学会・公明党はどこに向かうのか

 


第3章 創価学会と公明党の内部構造
  ――深化する一体化

公明党の得票数・率の推移

ここで公明党および創価学会の選挙における真の実力を検証してみたい。具体的には、参議院の全国区およびその後の比例区の得票数と得票率、それに衆院に小選挙区比例代表並立制が導入されて以降に行われた、96年衆院選からの比例ブロックの得票総数と得票率の推移を確認する(表;省略)。
公明党は、結党後、初めて臨んだ国政選挙である1965年の参院選でいきなり509万票を獲得し、得票率も13%を超えた。次の68年の参院選では得票数を665万票にまで増やす。それ以降、70年代から90年代にかけて、公明党の得票数は600万票台から700万票台で推移する。それが、2000年代に入ると01年の参院選で初めて800万票台に乗せ、04年の参院選では過去最高の862万票を獲得する。
一方、現在の小選挙区比例代表並立制が導入されて以降の衆院選の比例の得票総数(全国11ブロックの合計)だが、1回目の96年は新進党として戦ったためデータはなく、00年の総選挙が776万票、03年が873万票、そして05年の衆院選では898万票と、参院選も含めて過去最高の票を獲得している。当時は念願の1000万票も夢ではないと思われた。この05年総選挙は、小泉政権下のいわゆる「郵政解散」選挙であり、首相の小泉純一郎が郵政民営化に反対した自民党前議員の選挙区に「刺客」を立てるなどして大きな話題となったため、きわめて関心が高く、投票率が67.5%まで上がった。公明党は、無党派層からの投票が少ないため、投票率が上がっても得票があまり増えず、投票率が高くなれば得票率は下がるが、この選挙では得票数が増えたため、得票率も13.3%と大きく下がることはなかった。
ところが、公明党の得票数はその後、衆参ともに減っていく。参院選では、2007年が776万票とその前の参院選より86万票も減らし、それ以降も2010年は763万票、2013年は756万票と少しずつだがさらに減らしている。2016年の参院選では、757万票でほぼ横ばいだった。
衆院選をみても、09年はその前の郵政解散選挙の時から93万票も減らして805万票、12年はそこからさらに約94万票も減らして711万票となっている。ただ、14年の衆院選では731万票とやや回復させた。
この得票数を創価学会の公称ベースの会員数と比べてみよう。公明党結成前の1959年参院選全国区での創価学会文化部員の候補者たちの合計は248万票だったが、この時点の学会の会員世帯数は117万世帯だったので、一世帯当たり約2.1票も獲得していたことになる。ところが、1965年の参院選でみると、創価学会の会員世帯数530万に対して509万票となっており、一世帯当たり一票を割り込んでいる。創価学会の会員世帯数はその後も増え続け、1970年には750万世帯になっていたが、71年参院選の公明党の得票数は562万票、74年参院選では636万票にとどまり、その後も一世帯当たり一票を下回る状態が続く。
この数字からは、創価学会が国政選挙に進出した当初段階では、激しい選挙運動で一人の学会員が何票もの会員以外の票を獲得し、それが組織の拡大にもつながっていたことがわかる。その後も創価学会では、選挙のたびに学会員に対し、会員以外の知人、友人の票を獲りに行く「F(=フレンド)作戦」を行わせているが、そうした活発な集票活動を行う会員は、公表世帯数の増加とは裏腹にあまり増えていないことが推察される。70年代半ば以降は、それまでの創価学会の急拡大は止まり、2000年代初頭にかけて横ばい状態が続く。それにともなって公明党の得票数も600万~700万票台が続くのだ。

 


解説

70年代半ば以降は、それまでの創価学会の急拡大は止まり、2000年代初頭にかけて横ばい状態が続く。それにともなって公明党の得票数も600万~700万票台が続くのだ。

 

近年の国政選挙では投票率の変動や支持層の高年齢化などを背景に、得票数がさらに減少傾向にあります。2024年の衆院選および2025年の参院選では、いずれも従来の目標を大きく下回る結果となりました。

 


獅子風蓮

『創価学会・公明党の研究』を読む その29

以前、こんな記事を書きました。

新党・中道とは創価学会・公明党の「撤退戦」のための道具だったのか?(2026-02-05)

この記事の解説でも言及しましたが、中野潤『創価学会・公明党の研究』(岩波書店 2016)はいささか古い本ですが、現在の公明党の連立離脱・衆議院小選挙区からの撤退を理解するためには必読の著書です。
この本によると、創価学会は、会員の負担を考え、いつか衆議院から撤退することを考えていましたが、2015年11月の「政変」(正木理事長更迭事件)にからんで、先延ばしにされていたという事情があったようです。

そこで、この本を検証してみたいと思います。

 

創価学会・公明党の研究-自公連立政権の内在論理


暴走の歯止め役か、付き従う選挙マシンか。深まる創価学会と公明党の一体化に伴い、ますます自民党は選挙において創価学会への依存度を高めていく。はじめて明かされる創価学会と政界の攻防。


創価学会・公明党の研究

□序 章 最大の目的は「選挙協力」

□第1章 非自民連立政権の失敗から自公連立へ

□第2章 公明党の歴史的変遷

■第3章 創価学会と公明党の内部構造
 □池田大作と公明党
 □頻繁に協議を開くようになった公明党と創価学会
 □創価学会の「琴線に触れるテーマ」
 □公明党の人事はどのように決まるのか
 □新人発掘は地元の学会組織から
 □財政面でも創価学会に支えられる公明党
 □宗門戦争 日蓮正宗との決別
 ■社会の「嫌われ者」からの脱却と自公連立政権
 □公明党の得票数・率の推移
 □公明党の得票減を下支えする自民党との協力
 □進む学会員の高齢化が突きつける選挙戦の現実

□第4章 公明党の苦難の時代の始まりと創価学会「政治縮小路線」への模索

□第5章 幻の「民公連携」

□第6章 潰えた選挙制度改革という悲願

□第7章 「ポスト池田」レースと第二次安倍政権下の自公連立

□第8章 解釈改憲を認めた「平和の党」

□第9章 自民・公明の力関係と「維新」

□第10章 2016年参院選へ、創価学会の必死の攻勢

□終 章 創価学会・公明党はどこに向かうのか

 


第3章 創価学会と公明党の内部構造
  ――深化する一体化

社会の「嫌われ者」からの脱却と自公連立政権

この日蓮正宗との決別が、90年代から2000年代にかけて、創価学会の社会との関わり方に大きな変化をもたらす。そもそも日蓮正宗自体が、他の宗教を「邪宗」として排斥し、他の宗教に関わることは「謗法」であって「罰が当たる」との考えをとってきた。創価学会もこれに沿って、他の宗派の寺に足を踏み入れたり、地域の神社の祭に行くことすら禁じていた。こうした日蓮正宗の厳格さが地域社会との軋轢を生み、世間から警戒されて嫌われる原因にもなっていた。ところが、宗門との決別を機に創価学会は、こうした宗教的な厳格さを緩め、宗教的色彩の薄い地域の祭には参加しても構わないといった見解を打ち出した。これは、創価学会員がこれまで避けてきた地域の自治会活動やPTA活動などに積極的に参加するきっかけにもなった。
ただ、それだけで創価学会が広く社会に受け入れられるようになったわけではない。創価学会と公明党の幹部たちが揃って指摘するのは、宗門との決別とともに公明党が自民党との連立政権に参加したことも大きな転機になったということだ。
宗門からの独立から8年後の1999年、公明党は自民党との連立政権に参加したが、それによって公明党や創価学会への一般社会の理解が飛躍的に広がったという。とりわけ、創価学会への偏見が強かった地方では、学会や公明党への抵抗感が薄くなった結果、従来は選挙の支援要請で訪ねても全く相手にしてくれなかった地元の有力企業のオーナーなど地域の「名士」たちが、ていねいに対応してくれるようになったと学会関係者は証言する。それが自公連立の大きな効果だというのだ。
これは、創価学会の会員数が1970年代後半から頭打ちの傾向を示し、2000年代になると伸びがほぼ止まった中でも、一時期、公明党が得票数を大幅に増やす要因にもなった。

 


解説

宗門との決別を機に創価学会は、こうした宗教的な厳格さを緩め、宗教的色彩の薄い地域の祭には参加しても構わないといった見解を打ち出した。これは、創価学会員がこれまで避けてきた地域の自治会活動やPTA活動などに積極的に参加するきっかけにもなった。
ただ、それだけで創価学会が広く社会に受け入れられるようになったわけではない。創価学会と公明党の幹部たちが揃って指摘するのは、宗門との決別とともに公明党が自民党との連立政権に参加したことも大きな転機になったということだ。

 

公明党が連立政権を離脱して、新党・中道として戦った先の総選挙では、新党・中道は大きく議席を減らしました。

これは、「創価学会・公明党はやはり嫌われていた」ということではないでしょうか。

創価学会が宗門と決別して、社会から受け入れられるようになったというのは、思い違いだったのではないかと思います。

宗門攻撃に醜い姿をさらしていた創価学会のことを、世間は見抜いていたのでしょう。


獅子風蓮

『創価学会・公明党の研究』を読む その28

以前、こんな記事を書きました。

新党・中道とは創価学会・公明党の「撤退戦」のための道具だったのか?(2026-02-05)

この記事の解説でも言及しましたが、中野潤『創価学会・公明党の研究』(岩波書店 2016)はいささか古い本ですが、現在の公明党の連立離脱・衆議院小選挙区からの撤退を理解するためには必読の著書です。
この本によると、創価学会は、会員の負担を考え、いつか衆議院から撤退することを考えていましたが、2015年11月の「政変」(正木理事長更迭事件)にからんで、先延ばしにされていたという事情があったようです。

そこで、この本を検証してみたいと思います。

 

創価学会・公明党の研究-自公連立政権の内在論理


暴走の歯止め役か、付き従う選挙マシンか。深まる創価学会と公明党の一体化に伴い、ますます自民党は選挙において創価学会への依存度を高めていく。はじめて明かされる創価学会と政界の攻防。


創価学会・公明党の研究

□序 章 最大の目的は「選挙協力」

□第1章 非自民連立政権の失敗から自公連立へ

□第2章 公明党の歴史的変遷

■第3章 創価学会と公明党の内部構造
 □池田大作と公明党
 □頻繁に協議を開くようになった公明党と創価学会
 □創価学会の「琴線に触れるテーマ」
 □公明党の人事はどのように決まるのか
 □新人発掘は地元の学会組織から
 □財政面でも創価学会に支えられる公明党
 ■宗門戦争 日蓮正宗との決別
 □社会の「嫌われ者」からの脱却と自公連立政権
 □公明党の得票数・率の推移
 □公明党の得票減を下支えする自民党との協力
 □進む学会員の高齢化が突きつける選挙戦の現実

□第4章 公明党の苦難の時代の始まりと創価学会「政治縮小路線」への模索

□第5章 幻の「民公連携」

□第6章 潰えた選挙制度改革という悲願

□第7章 「ポスト池田」レースと第二次安倍政権下の自公連立

□第8章 解釈改憲を認めた「平和の党」

□第9章 自民・公明の力関係と「維新」

□第10章 2016年参院選へ、創価学会の必死の攻勢

□終 章 創価学会・公明党はどこに向かうのか

 


第3章 創価学会と公明党の内部構造
  ――深化する一体化

宗門戦争 日蓮正宗との決別

序章にも記したが、本書は、宗教団体としての創価学会を分析することが目的ではない。だが、ここで創価学会の宗教的な変遷と社会との関係について少し説明しておきたい。それは、自公連立政権が長く続いている理由にもつながっているからだ。
創価学会は、日蓮宗の一派である日蓮正宗の在家の信徒団体だった。学会の教学は日蓮正宗の教学であり、葬儀なども含め日蓮正宗の寺院で宗教儀礼を行なってきた。学会員たちは、静岡県富士宮市にある総本山の大石寺に多額の献金を行い、それは大石寺の建物や各地の寺院の建立などに使われてきた。創価学会は日蓮正宗とともに発展してきたのだ。
だが、1970年代に入って日本の高度成長期が終わり、地方から都会への流入者を信者として獲得することで拡大してきた創価学会の会員数も頭打ちとなる。その時、「第一次宗門戦争」と呼ばれる日蓮正宗との対立が起きる。この対立には、会員数の伸びが止まり、学会の財政が厳しくなってきたことが背景にあったという指摘がある。学会員の寄付はその多くが創価学会をすり抜けて日蓮正宗に集められていたが、池田は、1977年1月の講演で、創価学会の会館は現代の寺院にあたることや出家と在家が同格であることなどを表明。これは、大石寺や各地の寺院に流れていた学会員の寄付を学会の会館に集めようという意図から出た発言だというのだ(島田裕巳『公明党 vs. 創価学会』朝日新書、2007年)。池田の表明に対して日蓮正宗の僧侶たちから「教義逸脱だ」との激しい批判が沸き起こる。この時は結局、池田が大石寺に「お詫び登山」を行なって謝罪した。
この第一次宗門戦争については、教義をめぐる対立が本質だったとの見方もある。言論出版妨害事件を契機に、池田が「国立戒壇の建立」という言葉を「政教一致という誤解を招く」として今後は一切使わないことを宣言したことがきっかけになったというのだ。その延長線上で、創価学会は当時、大石寺に寄進しようとしていた巨大な正本堂を「国立戒壇にあたるものである」と宗門側に認めさせようとした。ところが、日蓮正宗の中でも教義に厳格な一派が強く反発し、教義をめぐる対立が激しくなった。これが第一次宗門戦争の原因だという(玉野和志『創価学会の研究』講談社現代新書、2008年)。
そうだとすれば、創価学会が政治の世界に進出したゆえに受けた批判をかわそうと 「国立戒壇の建立」を放棄したことが原因ということになる。つまり、創価学会が政界への進出によって世俗化したために、宗門との対立が始まったという見方だ。
いずれにしろ、池田は79年4月、創価学会会長を退くとともに、日蓮正宗の信徒を代表する法華講総講頭も辞任した。会長を退いた池田は、名誉会長という池田のために新設されたポストに就いた。これが契機となって池田の影響力は一時、学会内でも低下したが、ほどなくその力を回復し、その存在は神格化されていく。
創価学会にとって決定的な転機となったのは、1990年だった。詳しい経緯は省くが、その年から始まった「第二次宗門戦争」で、創価学会側は宗門側の要求を突っぱね、機関紙の聖教新聞紙上で宗門批判のキャンペーンを行うなどしたため、1991年、日蓮正宗側は最終的に創価学会を破門した。日蓮正宗の信徒団体として拡大してきた学会にとって、宗門との決別はきわめて重大な出来事だった。これを受けて、創価学会では、これまで崇めてきた「ご本尊」や日蓮正宗の僧侶に依存してきた葬儀などの儀礼を今後どうするかなどが大問題となり、古参会員には動揺が見られたという。だが、会則を変更し、牧口、戸田、池田という三代の会長を「広宣流布の永遠の師匠とする」と打ち出すなど、脱日蓮正宗化を明確にすることでそれを収束させ、会員数の減少を防いだ。

 


解説

私自身は、創価学会員として現実に「第一次宗門戦争」「第二次宗門戦争」を見てきました。

そして、創価学会側に、より謀略的なものを感じ、平成3年に妻子とともに脱会し、宗門に身を寄せました。

ようするに、学会の「宗門批判キャンペーン」に嘘が多いことに気づき、そのような組織に家族をおいておくことが正しくないと思われたからです。

でも、宗門やその信徒団体である法華講の組織は、かつての創価学会を思わせるように古臭く、やがて籍だけの信者になりました。

そんな私からすると、今回の本書のまとめかたは、あっさりとしすぎてとまどいます。

外部からながめると、そんな風に見えるんだ……

という感じです。

ともかく、創価学会は池田氏の強い意志の下、宗門との決別をはたし、現在の執行部によって脱日蓮正宗化を明確にすることで混乱を収束させ、会員数の減少を防いだとありますが、長期的にみれば、公明党の得票数の減少傾向にみるように、創価学会組織も衰退に向かっているといえるでしょう。

 

私は、池田氏の宗門攻撃から宗門との決別への指揮は間違っていたと思います。

当時、多くの学会員はそんなことを望んではいなかったと思います。

世界平和のために功績を残した池田氏ですが、足元の宗門戦争では、間違った指導力を発揮したと私は思います。

池田氏から見て、宗門の遅れたところ、社会的に未熟的なところがあれば、時間をかけて話し合えば良かったと思うのです。

私自身は、そろそろ終活を考える年齢ですが、日蓮正宗の信徒として死ねることを喜びと感じています。

 


獅子風蓮

『創価学会・公明党の研究』を読む その27

以前、こんな記事を書きました。

新党・中道とは創価学会・公明党の「撤退戦」のための道具だったのか?(2026-02-05)

この記事の解説でも言及しましたが、中野潤『創価学会・公明党の研究』(岩波書店 2016)はいささか古い本ですが、現在の公明党の連立離脱・衆議院小選挙区からの撤退を理解するためには必読の著書です。
この本によると、創価学会は、会員の負担を考え、いつか衆議院から撤退することを考えていましたが、2015年11月の「政変」(正木理事長更迭事件)にからんで、先延ばしにされていたという事情があったようです。

そこで、この本を検証してみたいと思います。

 

創価学会・公明党の研究-自公連立政権の内在論理


暴走の歯止め役か、付き従う選挙マシンか。深まる創価学会と公明党の一体化に伴い、ますます自民党は選挙において創価学会への依存度を高めていく。はじめて明かされる創価学会と政界の攻防。

 


創価学会・公明党の研究

□序 章 最大の目的は「選挙協力」

□第1章 非自民連立政権の失敗から自公連立へ

□第2章 公明党の歴史的変遷

■第3章 創価学会と公明党の内部構造
 □池田大作と公明党
 □頻繁に協議を開くようになった公明党と創価学会
 □創価学会の「琴線に触れるテーマ」
 □公明党の人事はどのように決まるのか
 □新人発掘は地元の学会組織から
 ■財政面でも創価学会に支えられる公明党
 □宗門戦争 日蓮正宗との決別
 □社会の「嫌われ者」からの脱却と自公連立政権
 □公明党の得票数・率の推移
 □公明党の得票減を下支えする自民党との協力
 □進む学会員の高齢化が突きつける選挙戦の現実

□第4章 公明党の苦難の時代の始まりと創価学会「政治縮小路線」への模索

□第5章 幻の「民公連携」

□第6章 潰えた選挙制度改革という悲願

□第7章 「ポスト池田」レースと第二次安倍政権下の自公連立

□第8章 解釈改憲を認めた「平和の党」

□第9章 自民・公明の力関係と「維新」

□第10章 2016年参院選へ、創価学会の必死の攻勢

□終 章 創価学会・公明党はどこに向かうのか

 


第3章 創価学会と公明党の内部構造
  ――深化する一体化

財政面でも創価学会に支えられる公明党

次に、公明党の財政面を検証する。平成26年(2014年)の政治資金収支報告書によると公明党の収入は131億円余りで、自民党の234億円、共産党の224億円に次ぐ3番目となっている。公明党の場合、選挙活動は創価学会員が手弁当で行うので政治資金はあまりいらないのではと思われているが、実際はかなりの資金を集めている。
ただ、その内訳は、公明新聞の販売やその広告収入など機関紙誌の発行に伴う収入が85億円余と全体の65%を占めており、これは共産党と共通する特徴だ。残りは国からの政党交付金と党員の納める党費が大半を占め、企業献金はごくわずかだ。このうち党費は45万人余から12億7000万円余が支払われているが、これは自民党や民主党よりも多い。だが、公明党の党員は大半が創価学会員で、それも創価学会の中で地域ごとに「義務」として割り振られた党員がほとんどだという。その党員たちが13億円近くもの党費を納めているのであって、公明新聞など各種出版物の購読者を含め、財政面から見ても事実上、創価学会丸抱えの政党と言っても過言ではないだろう。
ここまで見てきたように公明党と創価学会は実態上、一体化している。とはいえ、「政教分離」宣言以降、形の上では完全に分かれ、政党とその支持団体という形を取っているため、支援する際は驚くほど厳格に手順を踏んでいる。たとえて言えば、自民党と日本医師連盟(日本医師会)、民進党と連合との関係と同様である。その手順を簡単に説明すると、公明党はまず、国政選挙の半年ほど前になると常任役員会で創価学会に支持を依頼することを決め、正式に申し入れる。これを受けて創価学会は、選挙に関する決定機関である「中央社会協議会」を開き、これまでの公明党の実績を他党と比較するなどして公明党を支持するかどうか協議する。その上で公明党が最も生活者の視点に立って政策を推進しているなどとして支持を決定する。だが、こうした一連の手順は形式的なものになっているのが実態だ。

 


解説

このうち党費は45万人余から12億7000万円余が支払われているが、これは自民党や民主党よりも多い。だが、公明党の党員は大半が創価学会員で、それも創価学会の中で地域ごとに「義務」として割り振られた党員がほとんどだという。その党員たちが13億円近くもの党費を納めているのであって、公明新聞など各種出版物の購読者を含め、財政面から見ても事実上、創価学会丸抱えの政党と言っても過言ではないだろう。

 

当時の、創価学会と公明党との関係はこんなものだったのでしょう。

では、衆院から公明党が消失した現在は、どうなっているのでしょう。

創価学会員の負担は軽くなったのでしょうか。

そのことと、新党・中道の議員数の減少とは関係があるのでしょうか。

さらなるレポートをお願いしたいものです。

 


獅子風蓮