獅子風蓮のつぶやきブログ

創価を卒業し、組織にしばられず、いろいろ考えたりしたことや、読書感想などを書いています。

友岡雅弥さんの「異者の旗」その33)大相撲は「町の人たちの娯楽」だった

 

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より

いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 

 


カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH

ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。

 

 

freak33 - シミッタレた国技館

2018年6月21日 投稿
友岡雅弥

 

不世出の時代考証家・三田村鳶魚が、1909年、両国に「立派な」国技館(あの辰野金吾設計)が、出来たときの、江戸時代から生きてきた古老たちのつぶやきを拾っています。

「シミッタレな真似をしやがる」

ある意味、金に糸目をつけず、「国技」と名づけるに相応しい建物をと、建設された両国国技館(後に占領軍に接収されて、国技館は蔵前へ、さらに今は、両国に新・国技館が)。

なのに、「シミッタレ」、つまりけちくさいとはどういうことでしょうか?

それまで、相撲は、野天の広場で開かれていました。見世物の一つだったのです。軽業みたいなものと同じく、猥雑なもの。だから、客は、「女人禁制」、つまり、土俵だけではなく、見物席も、ケンカが当たり前だった。

闘犬や闘鶏と同じ、見世物の一つだったのです。

だから、恒久的な建物はなく、雨が降ったら休みでした。江戸期は、「晴天十日」、つまり、 晴れの日だけ興業をして、 十日間相務めます、ということです。

それで、相撲が始まる前に、仮の小屋を建てて、土俵も造り、千秋楽が終わると、それを解体し、もとの野原、広場に戻すのです。

だから、江戸っ子は、「相撲は十二日観るもんデェ」と言ってたわけです。

つまり、十日と建てる一日、解体の一日。
建てるわくわく、解体の寂寥も含めて、十二日の相撲、だったわけです。

プラス、建設と解体に地元の人を雇用するので、地元に還元される「仕事づくり」にもなる。

それが、きちんと席割りをした、「立派な、恒久的な建物」になると、ケンカも出来ネェし、建つときのわくわくもないし、解体の寂寥と、次の場所を待つわくわくもない。

また、見物の「女人禁制」も、観客動員のために解かれて(結局は、神道の古来の伝統ではなく、金儲け)、
地元には仕事が落ちず……。

自分たちの相撲(角力)が、「国技」とやらいう「お上」のものになってしまった。

古老たちは、「勘定づく」「もう角力(すもう)も駄目だよ」「財布ばかりきにしやがる」「算盤勘定」と嘆いたのでした。

坂茂(ばん・しげる)さんという、世界的建築家がいらっしゃいます。坂さんの建築に、僕が一番最初に触れたのは、阪神淡路大震災のときの鷹取教会です。

このブログで前に述べたように、坂さんの建築を世に知らしめたのが、阪神淡路大震災で焼失したカトリック鷹取教会の、仮設教会と、その時の、避難場所づくりでした。

坂さんは、その鷹取教会を「紙」で作ったのです。主に紙管です。

長田区鷹取にある教会は、震災の後の火事で焼けてしまいました。そして、その焼け跡に、坂さんは行ったのです。鷹取があった場所に、多くの人が集まっています。周囲に住む在日コリアンベトナムの人たちでした。

たき火を囲んで、聖歌を歌っていたのです。

そして、神田裕神父が坂さんに、こう語ったのです。

「教会がなくなって、はじめて本当の教会になった気がします」

鷹取の紙の教会は、とても美しいものでした。坂さんの仕事を検索していただいたらいいと思います。

一応、仮設の教会だったのですが、鷹取教会が再建しても、使命は終わらず、今は、台湾に渡り、コミュニティハウスとして利用されています。

また、ニュージーランド地震のとき、あの有名なクライストチャーチ聖堂が被害を受け、それを再建する間、仮設の大聖堂を、と依頼されて坂さんは、「紙の大聖堂」を作りました。

仮設の予定だったのですが、なんと今では、もとの大聖堂に並ぶほどの、市民から愛される場所となっています。

坂さんは、「紙の建物はどのぐらい持つんですか?」と問われて、言います。

「建物の寿命は、人からどれだけ愛されているか。ゼネコンが作った強靭な構造の巨大な建物も、またすぐ再開発で壊される」

昔の、両国国技館を設計した辰野金吾は、大の相撲好きで、子どもの頃から出羽海部屋に出入りしていたと言われます。
東京駅を始めとする彼の建築は、「土俵入り」やお相撲さんの「髷」の、「構造の流れ具合」を参考にしています。

だから、ある意味、相撲好きの「江戸っ子」そのものだったわけですが、町の広場で行われる相撲を、「自分たちの生活の一部」として愛していた「江戸っ子」の目からは、「遠いおカミのもの」と思われたのかもしれません。

ちなみに、「相撲は国技」というのは、この国技館完成のときの完成披露文に、「角力(相撲)は日本の国技」とあったから、この建物も「国技館」と名づけられ、以来、「日本の国技」を言われるようになったのです。

「町の人たちの娯楽」から、「国が認めた国技」への変化――それって、どうなのでしょうね。

 

 


解説

「町の人たちの娯楽」から、「国が認めた国技」への変化――それって、どうなのでしょうね。

 

そういう見方もあるのですね。

勉強になります。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮