獅子風蓮のつぶやきブログ

創価を卒業し、組織にしばられず、いろいろ考えたりしたことや、読書感想などを書いています。

友岡雅弥さんの「異者の旗」その28)これこそが本仏の姿


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より

いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 

 


カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH

ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。

 

freak28 -身で読むこと/単衣抄 1/2 

2018年6月3日 投稿
友岡雅弥


「単衣抄」に次のようにあります(御書p.1514)。

日蓮・日本国に出現せずば如来の金言も虚くなり・多宝の証明も・なにかせん・十方諸仏の御語も妄語となりなん、仏滅後二千二百二十余年・月氏・漢土・日本に一切世間多怨難信の人なし、日蓮なくば仏語既に絶えなん

えらい傲慢な話に見えますよね。オレがおれへんかったら、仏の言葉はウソになるぞ!って言うのですから。
とうわけで、この文字面だけに反応して、「大聖人はすごい!」となったら、仏教の根底が崩れますよね。

逆に、この文章の真意を考えて別の意味で「大聖人はすごい!」となれば、それは仏教の、また真の宗教的精神の精髄に触れるかもしれません。

「躓きの石」となる可能性のある言葉でもあり、また、これをどう解釈するかで、自分自身の信仰の如何が問われる一節だといえるかもしれません。

この文を解釈するときのカギは、「如来の金言」「諸仏の御語」「仏語」とは何かということにつきます。

それが何かは、前後の流れを見れば、分かることです。

前は、

法華経の故に日蓮程・人に悪まれたる者はなし、或は王に悪まれたれども民には悪まれず、或は僧は悪めば俗はもれ、男は悪めば女はもれ、或は愚人は悪めば智人はもれたり、此れは王よりは民・男女よりは僧尼・愚人よりは智人悪む・悪人よりは善人悪む、前代未聞の身なり後代にも有るべしともおぼえず、故に生年三十二より今年五十四に至るまで二十余年の間・或は寺を追い出され・或は処をおわれ・或は親類を煩はされ・或は夜打ちにあひ・或は合戦にあひ・或は悪口数をしらず・或は打たれ或は手を負ふ・或は弟子を殺され或は頸を切られんとし・或は流罪両度に及べり、二十余年が間・一時片時も心安き事なし、頼朝の七年の合戦もひまやありけん、頼義が十二年の闘諍も争か是にはすぐべき。

法華経の第四に云く「如来の現在にすら猶怨嫉多し」[如来現在。猶多怨嫉]等云云、第五に云く「一切世間怨多くして信じ難し」[一切世間。多怨難信]等云云、天台大師も恐らくはいまだ此の経文をばよみ給はず、一切世間皆信受せし故なり、伝教大師も及び給うべからず況滅度後の経文に符合せざるが故に


これは、ご自身の今までの人生を振り返った部分。これで、仏の「金言」は分かりますよね。

「未法にものすごい偉いやつでてくるぞ!ごっついすごいやつやぞ!日本を支配するぞ!」 という話ではなくて、

法華経』の故に、「如来の現在にすら猶怨嫉多し」「一切世間怨多くして信じ難し」、つまり、誰も信じてもらえなくて、誰からも嫌われるぞ。そんな日本一の嫌われもんやでー。
というわけです。


後ろは、

かかる身なれば蘇武が如く雪を食として命を継ぎ・李陵が如く蓑をきて世をすごす、山林に交つて果なき時は空くして両三日を過ぐ・鹿の皮破れぬれば裸にして三四月に及べり、(p.1515)かかる者をば何としてか哀とおぼしけん、未だ見参にも入らぬ人の膚を隠す衣を送り給候こそ何とも存じがたく候へ、此の帷をきて仏前に詣でて法華経を読み奉り候いなば・御経の文字は六万九千三百八十四字・一一の文字は皆金色の仏なり

これは、ご自身の「今の生活」の有り様と、その生活において「衣」がどれほどありがたかったかを述べるところ。

つまり、その生活とは「貧乏でボロボロでっせー」という生活。だから、一枚の衣ですら、ほんとうにありがたいという謙虚さ。

これが、「仏の金言」を「証明」した「大勝利」の姿であるということは、私たちは心に刻まないといけないと思います。

世間から嫌われ、着るものもなく、寒さに打ち震え、送ってもらった衣にひたすら感謝する一人の信仰者の姿
――これを「大勝利の姿」「本仏の姿」と拝するのが、私たちの信仰です。

さて、この御書は、建治元年ですから、身延に入られてすぐに認められた書簡です。

身延での生活の有り様を詳細に描写された御書があります。「秋元御書」です。

p.1078
此れは後なり、前に西より東へ波木井河の内に一つの滝あり身延河と名けたり、中天竺の鷲峰山を此の処へ移せるか将又漢土の天台山の来れるかと覚ゆ、此の四山・四河の中に手の広さ程の平かなる処あり、爰に庵室を結んで天雨を脱れ・木の皮をはぎて四壁とし、自死の鹿の皮を衣とし、春は蕨を折りて身を養ひ秋は果を拾いて命を支へ候つる程に、去年十一月より雪降り積て改年の正月・今に絶る事なし、庵室は七尺・雪は一丈・四壁は冰を壁とし軒のつららは道場荘厳の瓔珞の玉に似たり、内には雪を米と積む、本より人も来らぬ上・雪深くして道塞がり問う人もなき処なれば現在に八寒地獄の業を身につくのへり、生きながら仏には成らずして又寒苦鳥と申す鳥にも相似たり、頭は剃る事なければうづらの如し、衣は氷にとぢられて鴛鴦の羽を氷の結べるが如し、かかる処へは古へ昵びし人も問わず弟子等にも捨てられて候いつるに此の御器を給いて雪を盛りて飯と観じ水を飲んでこんずと思う、志のゆく所・思い遣らせ給へ又又申すべく候

この「秋元御書」(秋元太郎兵衛殿御返事)は、大聖人御書中の名文中の名文で、涙なしには読めないものですが、それは今回は、横において、ほんとに、ボロボロですよね。おそらく、ここに出てくる鹿の皮の衣が、「単衣抄」にも出てくるものかと思われます。

あなたからいただいた器に、雪を入れて溶かして飲んでいます。どれほどの思いで、私にこれをくださったのか、それに思いを巡らせています。

これが、「仏の金言」を身で読む人の姿です。実践した人のことばなのです。

 

 


解説
勉強になります。


友岡雅弥さんの御書講義が読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮