獅子風蓮のつぶやきブログ

創価を卒業し、組織にしばられず、いろいろ考えたりしたことや、読書感想などを書いています。

友岡雅弥さんの「異者の旗」その51) 種・熟・脱をめぐって(その2)


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より

いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 

 


カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH

ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。

 

 

freak51 - 種・熟・脱をめぐって(その2)

2018年9月20日 投稿
友岡雅弥

 


さて、前回は、天台大師が『法華文句』(また妙楽大師がその注釈書で)考察した、『法華経』の卓越性を述べました。

広大な宇宙の法則と秩序を説いているから『華厳経』が一番だとか、仏の久遠の生命を説いているから『涅槃経』が一番だとか、そのように、中国の華厳宗とか、涅槃宗とかが、強く主張していました。

――それは、ゴータマ・ブッダが、現実生活には関係ない、と排除した、「宇宙の無限性について考えること」「生命の永遠性について考えること」というものにつながります。

(現実生活のなかで、人生の励みとなるような「いのちって、みんな平等なんだな」とかいう生命論ならば、いいですけど。またつらい現実生活のなかで、星空を見て、 人間の小ささに気づいたりするのならいいですけど)


対して、天台大師の考察の特徴は、経典の優劣を「仏と衆生の関係」の強さで考えたことです。仏が人を救うという、一つ一つのプロセスを考えたということです。


抽象的な宇宙論、生命論とかは、排除されます。


それがそれが、大聖人のころの日本の天台宗では、へんな風に解釈されてしまうわけです。

「ふーん、ということは、仏に下種されて、長いこと調熟されたエリートたちが、『法華経』で得脱したっていうことやね、霊鷲山や虚空で、仏になったということ、もしくは仏の記別を受けたということなんやね」

「そしたら、その時の『法華経の会座』の人たちは、みんな仏様になっちゃったということなんや。ということは、末法のこんな戦争ばかりの時に生きているわれわれは、そこにいなかったということちゃうん!」

「つまり、『法華経』は、すでに訓練受けて受けて受けまくった人(これを「本已有善」といいます)を、刈り取るしか能がないということやね」

「そんなの去年の暦みたいなもんで、末法という、今の時流にあえへんやん」

「また、仏になってないわれわれは、釈尊とはなんの関係もないということやね。(これを「本未有善」といいます)」

「本未有善の末法衆生には、『法華経』は去年の暦やし、だから、新しい仏さん、阿弥陀さんや大日如来さんや薬師如来さんにたよらんとしかたないやん」

――――と、このように、当時の天台宗や世間の人々の多くは考えました。

また、それは、当時の念仏宗の興隆と相まって、「『法華経』は脱益や!本未有善の末法衆生には関係ない」という風潮が広がったのです。

よろしいでしょうか?

「『法華経』は脱益だ」、というのは、大聖人が言ったのではなくて、その当時の人たちが抱いた「法華経観」なんです。

「『法華経』が「脱益」」ではなくて、「当時の人たちが『法華経』を脱益とみなしていた」のです。

「本未有善」も、「本已有善」も、大聖人が言われたのではなく、末法思想の広がりのなかから、天台宗内で、また世間的に言われていたことなのです。


大聖人が文上法華経は脱(益)、文底は(下)種と言われているのは、「『法華経』が脱益」だという意味ではなく、「『法華経』の文上しかみないのが脱益」だということです。

大聖人があちこちで言われているように、「久遠実成」というのは、別に釈尊が久遠に成道したということではなく、衆生の仏界本有ということです。

下種するまえに、仏界は本有なんです。ただし、田のように、その仏界は、発現する機会が奪われている。だから、それが発現するような方途を与える――これが大聖人にとっての「下種」です。

これが、『法華経』が言いたかったこと、すなわち、「文章の表面」ではなく、「文底」です、すなわち「その文章が意味すること」です。

しかし、それを文章の表面(文上)だけ読んで、事実の歴史上のこととして、ああ、釈尊は久遠に成道し、以来、化導してきたすべての衆生を得脱させただけなんだな、と、世間の人たちは捉えちゃうのです。

「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし」 (p.1546) というのは、せっかくの『法華経』も、その表面しか見ない社会においては、無駄になるということです。

つまり、大聖人が言いたかったのは、世間の人のように、『法華経』の表面だけ読んだら、脱益に見えるかもしれないが、『法華経』の本意は、本有下種益なんだということです。


ところが、大聖人没後、大聖人の教えが「中古天台化」していきます。中古天台というのは、「人々はもともと仏だ、だから苦しんでいる人も仏、救う必要もない」という、大乗仏教の基本からの逸脱でした。
そして、中古天台・天台密教神秘主義も、混入してきて、

苦しむ人に寄り添い、手を差し伸べるという「下種」の行為が、「教判」的(やーい こっちがすごいやろ!的)に用いられるようになり、「神秘的な文底下種仏法観」、すなわち、大聖人は久遠元初の仏という、「文底仏法」でもなんでもない、「文上浮遊仏法」が室町期から江戸期にかけて成立するわけです。

僕の結論を繰り返します。

下種というのは、苦しむ人に寄り添い、手を差し伸べるという具体的行為のことだと思います。

 


解説
大聖人は久遠元初の仏という、「文底仏法」でもなんでもない、「文上浮遊仏法」が室町期から江戸期にかけて成立するわけです。

う~ん、このへんは難しくてよく分かりません。
友岡さんは、日蓮正宗でいう「大聖人は久遠元初の仏」という「文底仏法」を否定してのですね。日蓮本仏論の否定ということでしょうか。
それでいて、日蓮の偉大さをいろいろなところでほめたたえている。

私には、難しく考えず、「日蓮が魂を墨に染め流して書きて候ぞ」というありがたい御本尊をお与え下さった日蓮大聖人のことを素直に「ご本仏」として信仰するというのでいいのですが。
私は、「日蓮本仏論」を受け入れる立場です。

 


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。


獅子風蓮