
友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。
カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH
ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。
2018年9月6日 投稿
友岡雅弥
まず、「原理主義」という言葉について、少し述べます。
今「原理主義」というのは、「イスラム原理主義」だけを意味する感じですが、もともとは、主にアメリカのキリスト教原理主義を言ったものです。だから、研究者の中では、今でも「原理主義」という言葉を、「アメリカのキリスト教原理主義」だけに限って使う人がいます。
トランプ大統領の支持母体の一つでもあるのですが、「聖書に書いてあることを、そのまま、 事実だと考える」考え方のことです。
代表例は、進化論・宇宙論に対する対応です。
旧約聖書の「創世記」には、神は1日目に、宇宙を作り、光と作り、昼と夜を作った。
2日目に空をつくり、3日目に大地と植物と海。
4日目に、星辰と太陽と月。
5日目に、魚、鳥。
6日目に、獣と家畜と、家畜のあとに、人間。
つまり、これを原理主義的に捉えると、ビッグ・バンもうそ。相対性理論も、進化論もうそ。
では、地層から出る化石は?
3日目の大地を作る時に、化石も大地の一部として作ったんだ!
――こう考えるのです。
だから、スミソニアン博物館に展示している「古代生物の化石」の展示を、「神を冒涜するもの」と反対し、
科学の教科書で、5日で神は世界をつくったと、教えろ、と要求する。
言語や民族の違いは、「バベルの塔」により尊大になった人間に神が与えた「罰」。
多民族国家とか、文化的多様性というものは「罰」を、プラスの価値と考える許せない考え方……等々。
(そのくせ、もともとはネイティブ・アメリカンの土地を奪ったことは、きれいに思考から排除します)
とにかく、聖典に書かれてあることを、そのまま文字通り「事実」だと考えることです。
でも、笑えません。
仏典で、釈尊の過去世の姿が、雪山童子だと書いてたら、それをそのまま受け取る。
捨身のうさぎだと書いてあったら、「うーん、釈迦は過去世にうさぎだったのか」と受け取る。
仏が、眉間から光を出して、と書いてあったら、ウルトラセブンのエメリウム光線的なものを想像したり。
虚空に、七宝で飾られた宝塔がと書いてあったら、大地を割って出てくる巨大な塔を想像したり。
『法華経』宝塔品に出てくる宝塔は、高さが500由旬。「由旬」はサンスクリットでは、yojanaで、だいたい7キロなので、高さ3500キロメートル。
富士山の1000倍とかですよね。こんなのが出てきたら、恐竜大絶滅以上の破壊をもたらします。
須弥山の高さは、八万由旬なので、地球の何倍もあります。サーティワン・アイスクリームみたいな形で、太陽の回りをぐるぐるまわらなあきません。
古代インド人が大きさ知らなかったんだというのは間違いで、古代インドの天文学書Āryabhaṭīya には、惑星の軌道計算とか、かなり高度な天文学がでてますから(三角関数などは、ヴェーダ時代に知られてました)、仏典にでてくる、それらの表現は、「事実」を述べたものではないということは、推し量られますね。
それをその言葉通りとるのは、ある意味、「仏法原理主義」かもしれません。
ここまで書くと、お気づきのかたもいらっしゃるかもしれませんが、「原理主義」とは、文章にかかれていることをそのまま取る、つまり、「文上読み」ですね。
対して、どの聖典もですが、
書かれた当時の時代情勢、当時、人は何を恐れ、何に喜び、何に悲しんでいたのかを、聖典のことばの背後に想像していくことが「文底読み」であり、それを自分の人生のなかで確かめ、他者の苦しみを我が苦しみとし、そこから何が見えるかを考えることが「身読」ということではないかと思うのです。
「エデンの園」で、イヴがヘビに禁断の木の実(善悪を知り神のようになる)を食べるように誘惑されるときに、アダムは何をしていたと思いますか?
旧約聖書は、何も語りません。
それで、ほんの30年ほど前まで、この旧約聖書の「エデンの園」のエピソードは、
「女性は誘惑に負けやすい」という、「男性中心主義」の視点で解釈されていたのです。
このような解釈は現代では、徹底的に批判されています。
それどころか、そのはるか昔、
ミケランジェロは、システナ礼拝堂の絵画で、この「エデンの園」を描いたとき、どのように書いたとお思いですか?
なんと、ミケランジェロは、イヴの肩越しに、我先に木の実を取ろうとしたアダムを描いたのです。
旧約聖書の沈黙に対して、ミケランジェロは、このような「文底読み」をしたのです。
日蓮大聖人もそうでした。
それを「文底読み」では、日蓮大聖人は「久遠元初の仏様だ」なんて、中古天台かと思わすような、皮相な解釈、文上どころか、浮きに浮いた「空中浮遊読み」をしてはいけないですね。
『法華経』とは、万民が平等であること、特に、苦しむ人の苦しみをとる生き方を勧めている経典だ、だから、私は、そのような人生を生きよう。
――これが「文底読み」であり、「身読」であるわけです。
そして、「私」は、どうあるべきなのか?
それが問われているわけです。
【解説】
「仏法原理主義」……「原理主義」とは、文章にかかれていることをそのまま取る、つまり、「文上読み」ですね。
対して、どの聖典もですが、
書かれた当時の時代情勢、当時、人は何を恐れ、何に喜び、何に悲しんでいたのかを、聖典のことばの背後に想像していくことが「文底読み」であり、それを自分の人生のなかで確かめ、他者の苦しみを我が苦しみとし、そこから何が見えるかを考えることが「身読」ということではないかと思うのです。
なるほど、聖書や仏典などの聖典を文字通りそのまま解釈しようとするのが「原理主義」あるいは「文上読み」で、聖典のことばの背後を想像して理解するのが「文底読み」なのですね。
私は、日蓮大聖人の言葉は、時代の制約を差し引いて、その〈構造〉をつかみ取るべきだと主張してきましたが、その考えにも通じると思います。
友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。
獅子風蓮