獅子風蓮のつぶやきブログ

創価を卒業し、組織にしばられず、いろいろ考えたりしたことや、読書感想などを書いています。

友岡雅弥さんの「異者の旗」その64)絆は「束縛」 


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より

いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 


カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH

ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。

 

 

freak64-「絆」と「縁」

 

2018年11月22日 投稿
友岡雅弥

 

避難指示がでていた(今は解除)南相馬市小高に、本屋さんと自宅を造り、暮らし始めた作家の柳美里さんは、著書『人生にはやらなくていいことがある』のなかで、こう仰っています。


――「3.11を忘れない」という言葉は、苦しみから遠い言葉です。

この柳さんのことばのように、勝手に、りきんで「忘れない!」と言っても、結局はすぐに忘れてしまうことが多い。


ハンセン療養所に暮らす知りあいから「また来るね、とみんな言う。でもまた来てくれることは、まずない。だからまた来るかどうかを、いつの間にか私たちは観察するようになった」と言われたことがあります。


一度一度の出会いを大事に、とかいうと、息苦しすぎて、いつでも来れる雰囲気で、 しかも、わすれずに、次も来る――そんな感じで、僕は、ハンセン病隔離療養所や東北被災地に通ってきたつもりです。


さて、「絆」と言う言葉も、東日本大震災のあと、日本中で広がった言葉です。でも、その言葉の広がりとは、裏腹に、今、被災地の現状を、一つの地域でもいいので、知っている人はどれほどいるでしょうか?


世界的な「漢字学」の研究者であった白川静先生(晩年の数年間、よく先生の自宅におじゃましました)によると、「絆」は、「細い紐状のものでまといからめて自由を失わせること」(『字統』)です。


近代的な文献学、文字学的方法論はまだなかった時代ですが、漢代の文字辞典である『説文解字』十三には、「馬をつなぐもの」という意味が載っています。白川先生のような甲骨文、金石文の知識はないかもしれませんが、すでに、漢代には「絆」は、 「馬をつなぐもの」であるという認識があったということが知られます。

だから「絆」は、そこからでも「自由を束縛するもの」「自由を奪うもの」であるという意味を持っていた歴史は、2000年も経つわけです。


「束縛」という言葉は、Sanskritでは、saṃyogaです。最近の、日本で流行っているおしゃれーなヨガでは、サンヨーガは「結婚」ということで、とてもばら色のハッピーな感じになっていますが、もともとの、ヨーガおよびその母胎となったサーンキヤ学派の説では、saṃyogaは、精神と物質が接触し、輪廻が始まることであり、その接触がほどけることが、(サーンキヤ学派で)カーイヴァルヤと言われる解脱です。だから、180度意味が変わってしまったわけですね。


初期仏教で、saṃyogaは、財産とか年齢とか社会的身分とか、常住ではないものへの束縛。そのために、苦しみや不安にさいなまれる原因です。「愛着」rāga「執着」trṣṇāとも言われます。

だから、 まさに、「絆」は、いってみれば、初期仏教では、もっともいけないもの。人を苦しみの世界に拘束してしまうものなわけです。


さて、「絆」は「ほだし」とも読みます。動詞としては「ほだす」です。


「情にほだされる」の「ほだす」です。これなどは、まさに「愛着」 「執着」ですね。つまり、情に引きずられて、判断の自由、行動の自由が侵される。

ただし、目の前に困難の雨に打たれている人がいたら、情に「ほだされて」同苦の傘を差してあげるのは、当然だと思いますね。逆に、それは「行動意志の自由」そのものです。

さて、「絆」といえば、僕は「ファスケス」をいつも連想します。それは英語のfasten 「固く結束する」とも親戚なのですが、ファシスト党の象徴です。

「ファスケス」は斧と何本かの棒を皮の紐できつくむすび束ねたものです。

「斧」ということで、刃向うものは殺すぞという、王の力の象徴。また回りの棒は、王を取り巻く家臣たち、そして「むすび束ねる」は「固い団結」。

固い団結、絆は、ほんとに息が詰まりますね。


僕は「縁」ということばが、いいかなと思います。

「絆」ほどの「しばり」はなくて、温かい響きがある。「たまたま」的な要素もある。

でも、そのたまたまを繰り返すと、「縁」には「内実」がつまってくるような気がします。たまたまをたまたまで終わらせない。でも、りきんでしまうと、一度一度の「たまたまの出会い」が、暑苦しいものになる。

たまたま出会い、その時、必要なことを誠実に行う。そして、忘れずに「繰り返す」。

「強い縁」「運命的な縁」ではなくて、豊かで、しかもしなやかな縁、というものがとても大事な気がするのです。

 

 

 

 


解説

僕は「縁」ということばが、いいかなと思います。

「絆」ほどの「しばり」はなくて、温かい響きがある。「たまたま」的な要素もある。

でも、そのたまたまを繰り返すと、「縁」には「内実」がつまってくるような気がします。たまたまをたまたまで終わらせない。でも、りきんでしまうと、一度一度の「たまたまの出会い」が、暑苦しいものになる。

たまたま出会い、その時、必要なことを誠実に行う。そして、忘れずに「繰り返す」。

「強い縁」「運命的な縁」ではなくて、豊かで、しかもしなやかな縁、というものがとても大事な気がするのです。

 

私も、この方がいいかな。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮