獅子風蓮のつぶやきブログ

創価を卒業し、組織にしばられず、いろいろ考えたりしたことや、読書感想などを書いています。

友岡雅弥さんの「異者の旗」その63)受け難き人身を受け、会い難き仏法に出会う


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より

いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 

 


カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH

ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。

 

 

freak63 感謝と喜び、 それから……

 

2018年11月15日 投稿
友岡雅弥

 

インドの傑出した仏教詩人マートリチェータ(紀元二世紀ごろ)は、『百五十讃』というゴータマ・ブッダに捧げた詩の中で、こう記しています。

盲亀浮木とたとえよう
生まれがたき人間に私は生まれてきた
人間だからこそこの上ない教えを学ぶよろこびを感じることができる

ゆえに
私の言葉がつたなくても
要領をえないものであっても
私は(ゴータマ・ブッダを語る)言葉を実のあるものにして、残したい

ここに「盲亀浮木」とあります。日蓮大聖人の御書には「一眼の亀」ともありますが、 同じです。

「盲」にしても、「一眼」にしても、歴史的術語なのですが、現在の用語としては、使いたくない語なので、「意味するもののイメージ」だけ、こころに入れていただいたらいいと思います。日常語としては、氾濫させたくないことばです。

ゴータマ・ブッダの直弟子たちの言行録ともいうべき文献があります。

男性の弟子の言行録は「テーラ・ガーター」、女性弟子の言行録は「テーリー・ガーター」です。
「テーラ」は、「出家弟子」という意味で、「テーリー」はその女性形名詞です。

ちなみに、「テーラ」というのは、日本語の「寺」のもとになった言葉です。だから 「寺」というのは、建物や場所ではなく、「人」なんですけど。

文献としては、とても古いかたちを残している貴重な資料です。

特に、仏弟子たちがゴータマに出会うまでの苦悩(肉親の死や、自分自身の犯罪など)と、出会ってからの喜び、時には、ブッダに出会ってからも現れる利己的な欲望との葛藤など、仏弟子のこころの内面が赤裸々に語られていて得がたい第一次資料です。丹念に見て行けば、すでに弟子の段階で、ゴータマ・ブッダの根本思想がゆがめられて行ってるのが分かりますが、それもそういう意味で、貴重な資料です。

その「テーリー・ガーター」の最終章は、スメーダーという王女が、王女の地位も、約束された財産もすべて捨てて、ゴータマ・ブッダの弟子となる物語です。

ゴータマの姿に触れ、しばしばその教えを聴聞していたスメーダーは、王女の位を捨てて、本格的にゴータマの弟子になろうという決意を家族にします。

親たちは、「お前はヴァーラナ・ヴァティー国のアニカラッタ王の第一夫人となることになっている。王は若く、容姿端麗で、権勢、財宝、栄華が限りなくある」
と、娘を説得します。

さらに、アニカラッタ王自身も黄金と宝石で身を飾り、スメーダーに、思いとどまるように、説得に来ました。

その時に、スメーダーが語ったことばのなかに、次のような一節がでてきます。


「大河の東の方に浮かんでいる盲目の亀が、西から流れてくる軛の穴に、頭を突っ込むという話を思いだしてください。人身はそれほど得難いことを示す譬えとして、よく知られた話です」 (五〇〇)

その得がたい人身、人生をどのようなものに使うか?
財宝のような、泡のごとき、はかないものに使わず、私は確固としたブッダの教えのために使いたい。

諄々とスメーダーは、アニカラッタ王に語ります。

そして、とうとう、アニカラッタ王は理解し、そして彼がスメーダーの両親を説得してくれたのです。

スメーダーはこのようにして、ゴータマ・ブッダの弟子となりました。


日蓮大聖人は「松野殿後家尼御前御返事」の中で、

「たまたま生れたりといへども南無妙法蓮華経と唱へず、となふる事はゆめにもなし人の申すをも聞かず、仏のたとへを説かせ給うに一眼の亀の浮木の穴に値いがたきにたとへ給うなり」
と仰せです (p.1391)。

また、「法華経題目抄」にも、

さればこの経に値いたてまつる事をば三千年に一度華さく優曇華・無量無辺劫に一度値うなる一眼の亀にもたとへたり

とあります (p.941)。


受け難き人身を受け、会い難き仏法にであった。
そのことに対する感謝は、忘れてはいけないでしょう。

そして、
感謝が尽きないほどの今の自分の人生。

それで満足するのではなく、

それをもって、どのような毎日を送るか。
そのことがが、問われているのではないか、とおもいます。

 


解説

みなさんおなじみの「一眼の亀」のたとえ話です。

 

受け難き人身を受け、会い難き仏法にであった。
そのことに対する感謝は、忘れてはいけないでしょう。

 

そして、それで満足するのではなく、それをもってどのような毎日を送るのか。

こころして日々を送りたいものです。
友岡雅弥さんの御書講義が読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮