
友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。
カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH
ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。
2018年9月13日 投稿
友岡雅弥
天台大師智顗の『妙法蓮華経玄義(法華玄義)』の第一巻にこんな文章が出てきます。
「教相為三 一根性融不融相 二化導始終不始終相 三師弟遠近不遠近相」
仏典は、さまざまな時代に、さまざまな人々によって創作されたものなので(おそらくスッタニパータの一部などだけが釈尊が説いたものであろうとされています)、それを全部釈尊が説いたということで、見ていくと、むちゃくちゃ矛盾をはらんだものになります。
(中国で翻訳された「仏教経典」の中には、「金七十論」や「勝宗十句義論」など、釈尊が説いたどころか、バラモン哲学書も入ってたりして)
それで、どの経典が釈尊の本意を説いているのかが、中国において問題となり、
ある人たちは、華厳経が一番だ、ある人たちは涅槃経が第一番だ、ある人たちは法華経が第一番だ、と、違った意見を唱えたのです。
これを教相判釈、略して教判といいます。教相とは、その経典が何を説いているか、その経典の特徴とはなにか、ということです。
そのことを明らかにして、「釈尊の真意」を最も伝えている経典は何か、そしてさらには、釈尊そっちのけで、一番、理論的に高い経典はなにか、というのを、判別していこうというのが、「判釈」です。
根性融不融相というのは、『法華経』以前は、衆生の機根に配慮して、説く教えを変えた。『法華経』においては、一切衆生に同じ「一仏乗」を説いたので、『法華経』 が優れているとするものです。
化導始終不始終相というのは、『法華経』化城喩品で、
三千塵点劫という過去において、大通智勝仏の十六番目の王子であった過去世の釈尊が、『法華経』を衆生に対して説いて、衆生に仏になる種をおろし(下種)、以来、長大な期間、衆生を成熟させ(調熟)、そして、今、『法華経』の説法を効いている人たちが、まさに、『法華経』によって得脱する、
――という話で。
ここで始めて、釈尊の人々への化導の開始から成就までが説かれたというのです。
そして、この釈尊の衆生に対する利益を、「下種益」「熟益」「脱益」と言います。
うーん、そんなんどうでもええやん、ていう感じですけどね。
そんなこといってるまに、隣の風邪引きのおばあちゃんとこに、お粥持っていけよ、という感じですよね。
さて、師弟遠近不遠近相というのは、化城喩品では、「釈尊は大通智勝仏の十六番目の王子で、菩薩だった。その菩薩から、人々は初めて『法華経』を聴いて、下種された」
という話なんやけど、
『法華経』寿量品で、急転動地、今までのはウソやでーということになります。
今までは、釈尊は、ずっと菩薩で、人々に法を説いてきた、そして、『法華経』を説くまえ、初めて成道したときに仏になった(始成正覚)とゆうてきたけど、
ほんまは、久遠の昔から仏やったんやで、その時から、みんなに『法華経』を説いてきたんやでー、という話です。
これで、釈尊の化導の完全な始まり(三千塵点劫の時に菩薩としてではなく、五百塵点劫<三千塵点劫よりも五百塵点劫のほうが昔ですよ。詳しくは三千塵点劫の五百千万億那由他の四乗倍ですかね>)の時に、仏として)が明かされたというわけです。
まあ、こんな感じで、天台大師(と、より正確には、妙楽大師が天台大師の『法華文句』の解説でより詳しく)は、『法華経』が一番だ、と言 った訳です。
久遠下種、途中が調熟、そして『法華経』の会座で、説脱とね。
それが、日本に入ってきて、トンデモないことになります。続きは次回。
(つづく)
【解説】
この釈尊の衆生に対する利益を、「下種益」「熟益」「脱益」と言います。
うーん、そんなんどうでもええやん、ていう感じですけどね。
このへんの話は難しくて、私にもよく分かりません。
私も「うーん、そんなんどうでもええやん」ていう感じです。
友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。
獅子風蓮