
佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。
まずは、この本です。

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。
国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
■第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□拘置所の「ゆく年くる年」
□歴史に対する責任
□確定死刑囚
□三十一房の隣人
□保釈拒否の理由
□友遠方より来たる
■保釈と別れ
□「国家秘密」という壁
□東郷氏の「心変わり」
□論告求刑
□被告人最終陳述
□判決
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。
第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
保釈と別れ
ゴロデツキー教授の姿を目の当たりにし、声を聞いて、私は外に出たいとの思いを強めた。被告人席は背もたれのないベンチでできている。そのすぐ後ろが弁護人席だ。裁判長が閉廷を宣言し、私に手錠がかけられる短い時間に私は後ろを振り向き弁護人に「保釈手続きを急いでください。お願いします」ともう一度念を押した。
拘置所に戻ると独房の整理を始めた。何か淋しい感じがする。京都で過ごした学生時代、私は日清戦争のときに建った木造家屋の八畳間に神学部、大学院の6年間下宿したが、そこを去るときの気持ちに似ていた。
それから両隣の確定死刑囚に対しても、私だけが自由な身になるのが申し訳ないような気がした。また、拘置所の職員たちと別れるのも何か淋しい。監獄の看守というと、乱暴な人たちという印象が強いが、私の知る限りそれは事実と異なる。もちろん囚人と看守が激しく言い合うこともあるし、乱暴な口をきく看守もいる。しかし、私の経験では、拘置所の職員たちは、すました顔で大使館のパーティーに集まる外交官や政府高官や霞が関の官僚たちよりも人間を人物本位で見ることのできる人々だった。
被疑者や被告人が外でどのような犯罪を起こしたかは、拘置所職員にとっては本質的問題ではないようだ。檻の中での各人の生き方、それに対する看守の共感・反感が彼らの基準になっているように私には思えた。
裁判所への護送の途中、ある老看守が、「ここにはいろいろな人が来るからね。俺たちは人間を見る眼だけは肥えるからね。若い看守でやたら怒鳴りあげるのは、ここに来ている人たちのことが怖いからなんだよ。人間を見る眼がついてくると怒鳴らなくなるよ」と述べていたことが印象的だった。
特に私たちの階の責任者である担当の先生は、囚人の話をよく聞き、時に他の職員が規則を厳格に解釈して、「独房内で所持する下着の数が一枚多い」とか「歩くときは背筋を伸ばせ」とか言って囚人に気合いを入れていると、「そんなにガチャガチャ言わなくていいじゃないですか」と間に入ったり、拘置所職員のミスで食後に薬が配られなかったり、物品の配布が遅れたりしたときにはミスをした職員と共に囚人に頭を下げて歩いていた。
私の経験は独房、しかも接見等禁止措置がついた被告人や確定死刑囚という要注意人物の多い環境だったので、拘置所職員も特に気を遣っていたのかもしれない。雑居房では全く別の世界が存在するのであろう。しかし、世間で伝えられる拘置所職員の姿は、あまりに実像からかけ離れている。
10月8日の昼食は、麦飯、牛蒡汁、鯖の塩焼き、イカとキムチの和え物だった。昼食後、昼寝をしていると「ガチャ」と独房の鍵が開いた。担当が「保釈決定通知がきたよ。急いで」と言った。
まず、部屋の寝具と座布団の廃棄願の書類を書き、段ボール2箱に荷物をまとめた。担当が台車を押し、私の荷物を載せる。エレベーターで地下に下りる。拘置所のエレベーターには、ゴリラが暴れても壊れないような中扉がついており、囚人を奥に乗せ、中扉を閉めて隔離してから移動することになっているが、担当は中扉を閉めなかった。
エレベーターの中で担当が、「規則とはいえ、いろいろキツイことを言ってすみませんでした。外に出てからは是非活躍してください。楽しみにしています」と言って深々と頭を下げた。
私も頭を下げ、「なにをおっしゃいますか。こちらこそたいへんお世話になりました。感謝しています」と答えた。
地階で、再び空港のチェックインカウンターのようなところに案内された。担当は無言で去っていった。
1年5カ月前、ニコニコと私を迎えてくれた年輩の職員がカウンターの中に立っていた。
「番号、氏名」
「1095番、佐藤優」
「長かったですね。今日で保釈になります。接見等禁止が最後まで解けなかったんですね。手紙がたくさんきていますから受け取る手続をして下さい」
私はいくつもの書類に指印を押し、手紙を受け取った。それから、万年筆、財布、懐中時計、更に領置金を受け取った。その後、ゴザの上にすわり、拘置所に預けていた衣類、書籍、ノートを受け取った。預けてある品物ひとつひとつとリストをチェックしていく。これは若い職員が対応した。書籍とノートの数が多いのでだいぶ時間がかかった。若い職員が「これで終わりです。出口はあちらです。段ボール箱はもっていかれて結構です」と言ったところに、先程ニコニコと笑っていた年輩の職員が近寄ってきて、「実は佐藤さんの出所を聞きつけてだいぶマスコミが集まってきています。写真を撮られたりするとよくないので、裏口から出ましょう。誰か車で迎えにきていますか」と尋ねた。
私は同志社大学神学部の同窓生の名前をあげた。それから私は待合いボックスに案内された。ずいぶん長い時間待たされたような気がした。
「1095番、出てきて」
大きな声がした。私は待合いボックスの外に出た。荷物は職員によって既に車に運び込まれていた。職員3人に誘導されて、工事現場の通用門を抜けると友人が運転する車が待っていた。他に4、5人職員がいた。職員の一人が言った。
「通用門に回ったことを気付いているカメラマンがいるかもしれませんが、全力で振り切れば写らないと思います。急いでください」
「先生、ほんとうにどうもありがとうございます」
車は走り出した。職員たちが手を振っている。途中、記者たちがたむろする場所を車が通り、カメラマンが一斉にシャッターを切った。車は小菅インターに入った。注意深く後ろを振り向いたが、誰も追ってこない。
このようにして、10月8日夕刻、私は保釈になった。
保釈金は600万円だった。
西村検事と弁護人が早期保釈を勧め、被告人である私がそれに抵抗するという「奇妙な保釈闘争」もこれで終わりになった。
勾留日数は鈴木宗男氏より75日多い512日だった。
【解説】
私の経験は独房、しかも接見等禁止措置がついた被告人や確定死刑囚という要注意人物の多い環境だったので、拘置所職員も特に気を遣っていたのかもしれない。雑居房では全く別の世界が存在するのであろう。しかし、世間で伝えられる拘置所職員の姿は、あまりに実像からかけ離れている。
私は別のところ(獅子風蓮の夏空ブログ)で、山本譲司氏の『獄総記』を読み返しています。
山本氏も、看守の中には人間実のある人が少なくなったと書いていました。
獅子風蓮