
佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。
まずは、この本です。

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。
国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
■文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。
文庫版あとがき――国内亡命者として
(つづきです)
さて、私が抱えている刑事裁判の現状について少し説明しておきたい。
本書は、2005年2月17日、私に懲役2年6月、執行猶予4年間の判決が言い渡され、法廷で私が〈大室征男主任弁護人、緑川由香弁護人に「即日控訴の手続きをとってください」と依頼した〉(503頁)ところで終わっている。
私の控訴審は2006年2月25日に東京高等裁判所の刑事第五部で開始された。この種の控訴審では、珍しく実質的な審理が行われた。しかし、結果から見るならば、実質審理は私にとって肯定的意味をもたなかった。2007年1月31日、高橋省吾裁判長は、私に控訴棄却を言い渡した。もちろん私は即日上告の手続きをとった。闘いはまだ続いているのである。しかし、歴史的にこの実質審理には大きな意味があったと私は考える。なぜなら、控訴審において、当時、アメリカに在住していた東郷和彦氏が一時帰国し、2006年6月21日(弁護側主尋問)と7月31日(検察側反対尋問)に証言を行ったからだ。私の主観的な想いを極力排除するために、東郷氏の著書から引用する。
〈佐藤氏が告発されたのは、「日口支援協定」に基づき対ロシア支援に使われるべき資金を、海外の専門家の日本招聘や国際会議への日本人派遣のための費用に不正支出させたという背任罪であった。
6月21日の法廷では、最初に弁護人からの質問に答え、02年5月に私が出国にいたった事情や、その後の外国での生活について若干説明した後で、私は佐藤氏の事件について、次のように述べた。
「支出は外務省が組織として実行したものであり、そのことによって佐藤氏が罪に問われることはあり得ません」
それは、ロンドンでの取調べ以来、私の一貫して、説明してきたことだった。さらに、こう続けた。
「今回起訴された案件は、外務省の中で、明確な決裁書に従って実施されたものであります。問題となった招聘や派遣については、それが何を目的としたものなのか、実施の責任を持っている欧亜局(01年1月、欧州局に組織改編)からの正確な記述があり、かつ、その実施が日口支援協定に基づいて適法であるか否かについては、その唯一の判断権者である条約局(現国際法局)長の決裁がとられている――」
少々、専門的な話になったので、ここで簡単に説明しておくことにする。
日本政府の中で、国際法や国際条約についての最終的な解釈権は外務省の条約局長が持っている。そして、この権限は、憲法をはじめとする国内法について内閣法制局長官が持っている権限と同等の、極めて強いものである。日口支援協定も国際条約の一つであるから、当然、この協定に基づいて実施される案件が、適法であるかどうかの判断は、条約局長に委ねられることになる。
「そうやって、正確な情報に基づいて条約局長が決裁をした上で実施された案件について、その実施に際してメカニズムの一端を担っていたに過ぎない佐藤氏が、その責任を問われることはありえません」
私は、そう断言した。
一方、「当時、外務省に大きな影響力を持っていた鈴木宗男衆議院議員の圧力によりこの案件に対する判断が歪められたのではないか」という質問も受けた。
これに対して私は、鈴木氏によるいわゆる「風圧」というものがどのようなものであったかということを説明した上で、その可能性を完全に否定する証言を行った。
さらに、弁護人から、「佐藤優氏が自分の利益を図るためにこれらの事件を起こしたという指摘についてどう思うか」と尋ねられた。
私は、少し考えを整理してから、こう答えた。
「佐藤優氏は、公のため、日本の国のためにどうしたらよいかについて不眠不休で仕事をし、その献身ぶりは余人の及ぶところではありません。その政策目標を余りにも追求するが故に、時に外務省内外の人間関係の面で難しい問題が生じたこともありましたが、私は彼より15歳年上で一緒にロシアをやってきた者として、この点について十分に指導できなかったことを申し訳なく思います。しかし、彼が、私益を求めたり、そのために法を犯してなにかをやろうということは絶対に無いと思います」〉(東郷和彦『北方領土交渉秘録 失われた五度の機会』新潮社、2007年、15~17ページ)
支援委員会を統括する欧州局長がこのように真実を証言しても、裁判所は耳を傾けなかった。政治裁判とはそのようなものである。私にからむ事件はいずれも2000年に発生したから、2030年になれば、関連文書が公開される。これらの文書と東郷氏の証言を突き合わせれば、検察、裁判所の判断よりも私や東郷氏の主張の方が歴史の真実に合致していることは明らかなので、東郷氏が真実を証言し、それが記録に残ったことで私の目的は達したと言える。
2004年6月29日、東京地方裁判所で行われた被告人質問の席で、私は東郷氏にこう訴えた。
〈東郷さんはほんとうは日本に帰ってきたいのでしょう。私は、東郷さんが元気で、身柄を拘束されるということにもならず、刑事被告人となることもなく、自由に活動できていることを、とてもよいことと思うのです。この国策捜査には私は必然性があったと思います。しかし、国策捜査の直接の犠牲となる人間の数は、少なければ少ないほどよいと思うのです。
ただ、こだわりがあるのは、歴史に対する証言です。26年経てば、あの当時の関係文書が外交史料館から出てきます。そのときに、東郷さん、あなたが証言していないと歴史の前でどういうふうに評価されることになるか、それを考えておられますかと訊きたいんです。それと同時に、東郷さんは東郷さんの考えで、自分の幸福を追求する権利があると思います。東郷さんが自分の幸せのために、家族の幸せのために、一つの決断をしたということならば、それが私にとって不利になっても、私はそれを歓迎し、支持したい。これが正直な気持ちです〉(本書、490頁)
その時点で、私は東郷氏が法廷で私のために証言をすることはもとより、もう二度と東郷氏と顔をあわせることも口をきくこともないと思っていた。東郷氏は私と連絡を回復したときの様子をこう記す。
〈06年4月20日朝、私は、不安と期待の入り交じった気持ちで、電話をした。何回かの呼び出し音の後で、電話が繋がった。
「もしもし、こちら……」
そう私が切り出したのに対して、懐かしい声が聞こえてきた。
「いやー、東郷さん!」
実に不思議な瞬間であった。その一瞬で、4年の歳月と、音信不通と、ためらいと懸念など、すべて吹き飛んでしまった。〉『北方領土交渉秘録』、74頁)
私も東郷氏との友情を回復できてほんとうに嬉しかった。それと同時に東郷氏が「歴史に対する証言」を行ったことも嬉しかった。私たちの友情は、もう生涯崩れずに続くと思う。
(つづく)
【解説】
私の控訴審は2006年2月25日に東京高等裁判所の刑事第五部で開始された。この種の控訴審では、珍しく実質的な審理が行われた。しかし、結果から見るならば、実質審理は私にとって肯定的意味をもたなかった。2007年1月31日、高橋省吾裁判長は、私に控訴棄却を言い渡した。もちろん私は即日上告の手続きをとった。闘いはまだ続いているのである。しかし、歴史的にこの実質審理には大きな意味があったと私は考える。なぜなら、控訴審において、当時、アメリカに在住していた東郷和彦氏が一時帰国し、2006年6月21日(弁護側主尋問)と7月31日(検察側反対尋問)に証言を行ったからだ。
第一審では、日本に帰国すると逮捕されるおそれがあったため、東郷和彦氏は証言することができなかった。そのように、検事に脅されたのです。
でも、控訴審では佐藤氏の著書(本書)の影響などもあり、検察をとりまく環境が厳しくなりました。
東郷氏が帰国しても逮捕されないという保証がなされたので、無事帰国し、証言台に立つことができたのでした。
獅子風蓮