最初のころ、私は乙骨正生氏の著書「怪死……」を読んで、女性市議転落に創価学会がかかわっているという疑惑があることを知りました。
このブログでも連載しました。
しかし、別のところ(獅子風蓮の夏空ブログ)でも書きましたが、宇留嶋氏のブログと著書を読み、考えを改めました。

そこで、この本を紹介したいと思います。
宇留嶋瑞郎(うるしま・よしろう)
『民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒』
ユニコン企画・発行
長崎出版株式会社・発売
(1998.03)
目次
第一章 当選返上
第二章 矢野という「草の根」の来歴
□60件を超す珍しい 「訴訟運動家」
■公民館活動で知り合った仲
□「東村山市民新聞」で行政批判
□明代の「傍聴席との二人三脚」
□東村山市立四中をめぐる二つの事件
□提訴を宣伝材料に
□信じられない決議案
□創価学会攻撃に転じた「草の根」
□ついに自ら市議選に
第三章 万引き事件発生
第四章 錯誤と悲痛
第五章 転落死と空白の2時間
第六章 小さな正義
第七章 捜査終結から逆転判決へ
あとがき
第二章 矢野という「草の根」の来歴
公民館活動で知り合った仲
一方、朝木直子の母親である明代は、66年、東村山有数の歴史を持つ臨済宗徳蔵寺の三男で、かつては中学時代の家庭教師だった朝木大統と恋愛結婚。その後、子育てが一段落ついた75年から、東村山市内で子供会活動や地域活動などのボランティア活動に携わるようになった。
矢野と朝木がはじめて知り合ったのは、この年である。東村山市教育委員会が公民館で行っていた講座の企画委員に応募したことがきっかけだったという。矢野穂積28歳、朝木明代31歳のころである。明代はその後も積極的に市民のボランティア活動に参加、とりわけ高齢者問題に熱心に取り組んでいた。81年には東村山市教育委員会の第五期社会教育委員に就任。明代自身の年譜によれば、子供や高齢者問題だけでなく、社会全体に視野を広げていったのはこの時期からであるらしい。
朝木明代と矢野穂積が親密な関係になっていくのはその翌年のこと。同時にボランティア活動などにみられた明代の積極性が、実は自負の裏返しではないかと、いささか嫉妬まじりにいわれるようになったのもどうもこのころである。余談だが、二つは相補い合って人に困難を克服させる。市民社会が未成熟のとき、こうした偏見はどの先進国家にも現れたものだが、日本でもボランティア活動などがこれからごく日常化するまでは、同じ危険は起きやすいのだろう。人間の、一面での情けなさ――だが。
明代は、もともと人の感化に素直なたちだったらしく、独り暮らしの高齢者のための金曜昼食会を主催していた主婦に傾倒、昼食会を手伝うようになるが、このころの明代は考え方から口調まで主催者の主婦にそっくりだったという。また、自分が名門徳蔵寺の嫁であることを鼻にかけた様子をたまにのぞかせては、あとで自分でしょげるなど確かにプライド調制の不得手な面はあったのだろう。しかし、まだ友達をなくすほどではなかった。そんなやさしいボランティア主婦だった明代が、目立って尊大な物言いをするようになったのは矢野と付き合いはじめたころからだと、昔の明代を知る人たちは異口同音にいっている。明代の変貌は物言いだけではなかった。なぜか友人と話をするときにも、明代はテープレコーダーでその話を録音するようになっていた。これに気づいた友人たちは、しだいに明代に近づきがたい感じを深め、明代と距離を置くようになる。
矢野と明代が東村山駅近くにあった空き家を仲間数人と共同で借りたのは、82年の終わりごろという。二人は公民館に出入りするうちに行政や議会の情報を入手した。 東村山では自民党、公明党はもとより、社会党もまた一定の支持層に支えられていて、急に票を減らすこともないかわりに大幅に票を増やすような状況でもないこと、そして、既存の政治勢力の注意が最も行き届いていないのが彼らのかかわっていた社会福祉の分野であることもおそらく知ったのだろう。競輪場裁判で行政に一泡吹かせた矢野の関心は、すでに自治会から東村山市全体の行政や議会へと移っていた。彼らが空き家を借りたのはもともとボランティアの拠点にするためだったといわれる。矢野は明代の周辺にいたボランティア主婦たちも仲間に誘ったが、多くは矢野の一方通行に早くも異常性を感じてか明代以外について来る者はなかった。
彼らは一階に喫茶店「ミッシェル」をオープンし、二階を事務所として使うことになった。これが現在の「草の根」事務所である。矢野穂積35歳、朝木明代38歳のころだった。喫茶店「ミッシェル」の二階は、矢野と明代の活動の拠点となっただけでなく、二人がプライベートな関係を深めた場所でもあったようだ。

余談だが、事務所を開いた翌年の83年、矢野は早くも東村山市政に打って出る。事務所開設仲間の一人で、それまで矢野の学習塾を手伝っていた一橋大出の蝦名裕を市長選に擁立したのである。そしてこの経緯も興味深いものだった。実は、当初、矢野と蝦名は前の助役だった一ノ関候補を応援していた。ところが、矢野らは交際途中で一ノ関を絶縁、蝦名を市長候補として担ぎ上げたのだ。そしてこれを境に陣営は内紛状態となった。人として気の毒にと思うが、競輪場問題以来活動をともにしていた小野健二が、矢野と最終的に袂を分かち、以後宿敵とみなされるようになるのはこの一件が原因だった。小野は矢野宛に内容証明郵便を送付するなどして釈明を求めた。しかし、なしのつぶてだった。結局、その年の市長選で蝦名は落選、矢野の市政への初挑戦は失敗に終わった。矢野や明代は85年にも蝦名を都議選に擁立するが、東村山市内で4000票を獲得したもののあえなく落選している。
矢野グループと小野の冷戦状態はいまだもって続いている。たとえば、蝦名裕の小野健二に対する暴行事件が発生したのは89年だった。89年3月某日の未明、西武園前駅近くで偶然小野に出会った蝦名は、いきなり小野に体当たりを食らわした。
小野は傷害容疑で東村山警察に告訴したが、その後しばらくして、蝦名は小野に対して今度は逆告訴という妙な手段に出たのである。むろん小野に対する処分はなかったが、自分の言葉は自分の主張のためにのみ使い、批判者から持ち込まれる言葉はみな「訴訟」「法廷」にだけ託そうとする「現実感覚」は、やはり東村山市民のいう「批判者に対しては執拗な嫌がらせを行い、逆告訴によって被害者を加害者に仕立て上げてしまうやり方」だと見られてしまおう。私にその性格の診断能力はない。しかし残念ながら、彼らはその後もどうやら、この手法で東村山市民に対していくのである。いまでは蝦名も矢野のもとを離れているといわれる。
【解説】
そんなやさしいボランティア主婦だった明代が、目立って尊大な物言いをするようになったのは矢野と付き合いはじめたころからだと、昔の明代を知る人たちは異口同音にいっている。明代の変貌は物言いだけではなかった。なぜか友人と話をするときにも、明代はテープレコーダーでその話を録音するようになっていた。これに気づいた友人たちは、しだいに明代に近づきがたい感じを深め、明代と距離を置くようになる。
人に感化されやすいところのあった朝木明代は、矢野穂積と付き合いはじめて、彼に影響されていったようです。
獅子風蓮