獅子風蓮のつぶやきブログ

創価を卒業し、組織にしばられず、いろいろ考えたりしたことや、読書感想などを書いています。

池田先生のハーバード大学でのスピーチを読む その6

ウクライナと中東で戦争が止まらない世界に、何かが間違っている、なんとかしないといけないと思うこの頃ですが、こんなとき、池田先生のハーバード大学でのスピーチを読み返してみたくなります。

池田先生のハーバード大学でのスピーチには2つありますが、次には1993年に行われた「21世紀文明と大乗仏教」を読んでみたいと思います。

 


1993年(平成5年)9月24日 ハーバード大学 (アメリカ)
講演「21世紀文明と大乗仏教」ハーバード大学での記念講演

(写真は同サイトより)

 

(つづきです)

人間復権の機軸

 第二に「人間復権の機軸」という視点であります。
 これを平易に言うならば、再び宗教の時代が叫ばれる今こそ、はたして宗教をもつことが人間を強くするのか弱くするのか、善くするのか悪くするのか、賢くするのか愚かにするのか、という判断を誤ってはならないということであります。社会主義諸国の崩壊により、マルクスの権威は地に堕ちた感があるとはいえ、彼の宗教阿片説が全く無意味であったとはいえません。
 洋の東西を問わず、復活しつつある、もろもろの宗教が、阿片的側面をぬぐい去っているとはとうてい言えず、先にテキサス州銃撃事件を起こした教団などは極端な例でありますが、世紀末の“神々”の中には、相互依存と文化交流の進展を逆行する閉鎖的、独善的なものも多いようであります。
 そのためにも、私は仏教で言う「他力」と「自力」――キリスト教流に言うと「恩寵」と「自由意志」の問題になると思いますが、その両者のバランスの在り方を改めて検証してみたいのであります。
 ヨーロッパ主導の中世から近代への流れを、大まかに俯瞰してみれば、物事の決定権がもっぱら神の意志にあった、神中心の決定論的世界から、その決定権が人間の側に委ねられ、自由意志と責任の世界へと徐々に力点が移行してくる過程であります。いってみれば、「他力」から「自力」への主役交代であります。
 それは、確かに科学技術を中心に大きな成果を積み上げてきましたが、同時に、その理性万能主義が、人間が自力ですべてを為しうるという思いあがりを生み、現代文明を抜きさしならぬ袋小路に追い込んでいることは周知の事実であります。
 かつての他力依存が人間の責任の過小評価であるとすれば、近代の自力依存は人間の能力の過信であり、エゴの肥大化であります。袋小路の現代文明は、自力と他力の一方へ偏重するのではなく、今や「第三の道」を模索しているといえるのではないでしょうか。
 その点「自力も定めて自力にあらず」(「一代聖教大意」御書403頁)「他力も定めて他力に非ず」(同頁)と精妙に説く大乗仏教の視点には、重要な示唆が含まれていると思います。そこでは2つの力が融合し、両々相まって絶妙のバランスをとっていくことが慫慂(さそい勧める)されているからであります。
 少し立ち入って述べれば、かつてデューイは「誰でもの信仰」を唱え、特定の宗教よりも「宗教的なもの」の緊要性を訴えました。
 なぜなら、宗教がともすれば独善や狂信に陥りがちなのに対し、「宗教的なもの」は「人間の関心とエネルギーを統一」し、「行動を導き、感情に熱を加え、知性に光を加える」。そして「あらゆる形式の芸術、知識、努力、働いた後の休息、教育と親しい交わり、友情と恋愛、心身の成長、などに含まれる価値」(魚津邦夫編『世界の思想家20 デューイ』平凡社)を開花、創造せしむるからであります。
 デューイは他力という言葉は使いませんが、総じて「宗教的なもの」とは、善きもの、価値あるものを希求しゆく人間の能動的な生き方を鼓舞し、いわば、あと押しするような力用といえましょう。まことに「“宗教的なもの”は、自ら助くる者を助くる」のであります。
 近代人の自我信仰の無残な結末が示すように、自力はそれのみで自らの能力を全うできない。他力すなわち有限な自己を超えた永遠なるものへの祈りと融合によって初めて、自力も十全に働く。しかし、その十全なる力は本来、自身の中にあったものである――デューイもおそらく含意していたであろう、こうした視点こそ、宗教が未来性をもちうるかどうかの分水嶺であると私は思うのであります。
 私は、仏教者に限らず全宗教者は、歴史の歯車を逆転させないために、この一点は絶対に踏み外してはならないと思います。そうでないと、宗教は、人間復権どころか、再び人間をドグマや宗教的権威に隷属させようとする力をもつからであります。
 その点、コックス教授が私どもの運動を「ヒューマニズムの宗教の方向を示そうとしている」として注目してくださっていることに深く感謝申し上げます。
 仏典には「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり」(「御義口伝」御書790頁)とあります。
 仏教は観念ではなく、時々刻々、人生の軌道修正を為さしむるものであります。“億劫の辛労を尽くす”とあるように、あらゆる課題を一身に受け、全意識を目覚めさせていく。全生命力を燃焼させていく。そうして為すべきことを全力で為しゆく。そこに、「無作三身」という仏の命が瞬間瞬間、湧き出してきて、人間的営為を正しい方向へ、正しい道へと導き励ましてくれる。
 法華経には、しばしばドラムやトランペットのような楽器が登場するのも、それらの響きが生きんとする意志への励ましであるとすれば、よく納得できます。そして、その仏の命の力用が、「君よ、強くあれ。君よ、善くあれ、賢明であれ」との、人間復権へのメッセージであることは申すまでもありません。

(つづく)

 

 


解説

 かつての他力依存が人間の責任の過小評価であるとすれば、近代の自力依存は人間の能力の過信であり、エゴの肥大化であります。袋小路の現代文明は、自力と他力の一方へ偏重するのではなく、今や「第三の道」を模索しているといえるのではないでしょうか。

 

ここが、大乗仏教なかんずく日蓮仏法の面目躍如たるところですね。

日蓮が編み出した唱題行という方法は、「他力」のようでいて「他力」ではない。「自力」であるようでいて「自力」でもない。

修行としては「第三の道」だったといえるでしょう。

 

 

獅子風蓮