ウクライナと中東で戦争が止まらない世界に、何かが間違っている、なんとかしないといけないと思うこの頃ですが、こんなとき、池田先生のハーバード大学でのスピーチを読み返してみたくなります。
池田先生のハーバード大学でのスピーチには2つありますが、次には1993年に行われた「21世紀文明と大乗仏教」を読んでみたいと思います。
1993年(平成5年)9月24日 ハーバード大学 (アメリカ)
講演「21世紀文明と大乗仏教」ハーバード大学での記念講演

(写真は同サイトより)
(つづきです)
万物共生の大地
第三に「万物共生の大地」という視点を申し上げたい。
法華経には数々の譬喩が説かれておりますが、その中に、広大なる大地が等しく慈雨に潤い、大小さまざまな草木が生き生きと萌え出ずる描写があります。一幅の名画を見るように雄大にしてダイナミック、いかにも法華経らしい命の躍動は、直接的には、仏の平等大慧の法に浴して、すべての人々が仏道を成じていくことを示しています。
しかし、それにとどまらず、人間並びに山川草木に至るまでが、仏の命を呼吸しながら、個性豊かに生を謳歌している「万物共生の大地」のイメージを、見事に象っているように思えるのであります。
ご存じのように、仏教では「共生」を「縁起」と説きます。「縁起」が、縁りて起こると書くように、人間界であれ自然界であれ、単独で存在しているものはなく、すべてが互いに縁となりながら現象界を形成している。
すなわち、事象のありのままの姿は、個別性というよりも関係性や相互依存性を根底としている。
一切の生きとし生けるものは、互いに関係し依存し合いながら、生きた一つのコスモス(内的調和)、哲学的にいうならば、意味連関の構造を成しているというのが、大乗仏教の自然観の骨格なのであります。
かつて、ゲーテは『ファウスト』で「あらゆるものが一個の全体を織りなしている。一つ一つがたがいに生きてはたらいている」(大山定一訳、『ゲーテ全集』2所収、人文書院)と語りました。この仏教的ともいうべき知見を、若き友人エッカーマンは「予感はするが実証がない」(『ゲーテとの対話』下巻、神保光太郎訳、角川文庫)と評しましたが、その後、百数十年の歳月とともに、かのゲーテの、更には仏教の演繹的発想の先見性をうかがわせつつあるようです。
因果律を例にとれば、縁起論でいう因果律は、近代科学でいう、人間の主観から切り離された客観的な自然界を支配している機械論的因果律とはおよそ異なり、人間自身を含む広義の自然界に渉っております。
例えば、ある災害が起こったとする。その災害がどのようにして生じたのか。その一定の原因究明は、機械論的因果律で可能でしょう。しかし、そこには、なぜ自分がその災害にあったのかといった類の問いは、決定的になじまない。むしろ、そうした実存的問いを切り捨てたところに成り立つのが機械論的自然観であります。
仏教で説く因果律は「何に縁りて老死があるのか。生に縁りて老死がある」(増谷文雄・梅原猛『仏教の思想』1、角川書店)との釈尊の原初の応答が示しているように、そうした「なぜ」という問いを真正面に受け止めているのであります。そして、思索を深めながら、中国の天台智顗の有名な「一念三千」論のように、近代科学とも十分に整合性をもつ、雄大にして精緻な論理を展開しているのであります。
時間の関係で詳論はいたしませんが、現代の生態学、トランス・パーソナル心理学、量子力学等は、それぞれの立場で、そうした仏教的発想と親近しつつあるように思えてなりません。
さて、関係性や相互依存性を強調すると、ともすれば主体性が埋没してしまうのではないかと思われがちでありますが、そこには一つの誤解があるようです。
仏典には、「己こそ己の主である。他の誰がまさに主であろうか。己がよく抑制されたならば、人は得難い主を得る」「まさに自らを熾燃(=ともしび)とし、法を熾燃とすべし。他を熾燃とすることなかれ。自らに帰依し、法に帰依せよ。他に帰依することなかれ」(宮坂宥勝『真理の花たば 法句経』筑摩書房)等とあります。
いずれも、他に紛動されず、自己に忠実に主体的に生きよと強く促しているのであります。ただ、ここに「己」「自ら」というのは、エゴイズムに囚われた小さな自分、すなわち「小我」ではなく、時間的にも空間的にも無限に因果の綾なす宇宙生命に融合している大きな自分、すなわち「大我」を指しております。
そうした「大我」こそ、ユングが「自我(エゴ)」の奥にある大文字の「自己(セルフ)」と呼び、エマーソンが「あらゆる部分や分子が平等に結びつく普遍的な美、永遠の『一なる者』」(『エマソン論文集』酒本雅之訳、岩波書店)と呼んだ次元と強く共鳴し、共振し合いながら、来るべき世紀へ「万物共生の大地」を成していくであろうことを、私は信じて疑いません。
それはまた、ホイットマンの大らかな魂の讃歌の一節を想起させるのであります。
わたしはふり向いて
あなたに呼びかける、
おお、魂よ、あなたこそ本当の「わたし」、
するとあなたは、何とまあ、
いとも優しげに
一切の天球を配下におさめ、
あなたは「時間」の伴侶となり、
「死」に向かっては
満足の微笑を投げかけ、
そして「空間」の広大な広がりを
くまなく満たし、
たっぷりと膨脹させてみせる
(『草の葉』鍋島能弘・酒井雅之訳、岩波文庫)
大乗仏教で説くこの「大我」とは、一切衆生の苦を我が苦となしゆく「開かれた人格」の異名であり、常に現実社会の人間群に向かって、抜苦与楽の行動を繰り広げるのであります。
こうした大いなる人間性の連帯にこそ、いわゆる「近代的自我」の閉塞を突き抜けて、新たな文明が志向すべき地平があるといえないでしょうか。そしてまた、「生も歓喜であり、死も歓喜である」という生死観は、このダイナミックな大我の脈動のなかに、確立されゆくことでありましょう。
日蓮大聖人の「御義口伝」には、「四相(=生老病死)を以て我等が一身の塔を荘厳するなり」(御書740頁)とあります。
21世紀の人類が、一人一人の「生命の宝塔」を輝かせゆくことを、私は心から祈りたい。
そして、「開かれた対話」の壮大な交響に、この青き地球を包みながら、「第三の千年」へ、新生の一歩を踏み出しゆくことを、私は願うものであります。その光彩陸離たる「人間と平和の世紀」の夜明けを見つめながら、私のスピーチとさせていただきます。
ご清聴、ありがとうございました。
【解説】
大乗仏教で説くこの「大我」とは、一切衆生の苦を我が苦となしゆく「開かれた人格」の異名であり、常に現実社会の人間群に向かって、抜苦与楽の行動を繰り広げるのであります。
こうした大いなる人間性の連帯にこそ、いわゆる「近代的自我」の閉塞を突き抜けて、新たな文明が志向すべき地平があるといえないでしょうか。そしてまた、「生も歓喜であり、死も歓喜である」という生死観は、このダイナミックな大我の脈動のなかに、確立されゆくことでありましょう。
私には異論はありません。
この通りに、21世紀が「人間と平和の世紀」になっていれば文句はないのですが、現実にはそうなっていないところに歯がゆさを感じます。
さて、仏教は本来「無我」を説いていたはずです。
大乗仏教で説かれた「大我」とは、どういうことでしょうか。
本当に大乗仏教で「大我」が説かれたのでしょうか。
勉強不足のため、よく分かりません。
今後の検討課題にしたいと思います。
獅子風蓮