最初のころ、私は乙骨正生氏の著書「怪死……」を読んで、女性市議転落に創価学会がかかわっているという疑惑があることを知りました。
このブログでも連載しました。
しかし、別のところ(獅子風蓮の夏空ブログ)でも書きましたが、宇留嶋氏のブログと著書を読み、考えを改めました。

そこで、この本を紹介したいと思います。
宇留嶋瑞郎(うるしま・よしろう)
『民主主義汚染 東村山市議転落と日本の暗黒』
ユニコン企画・発行
長崎出版株式会社・発売
(1998.03)
目次
第一章 当選返上
第二章 矢野という「草の根」の来歴
□60件を超す珍しい 「訴訟運動家」
□公民館活動で知り合った仲
□「東村山市民新聞」で行政批判
□明代の「傍聴席との二人三脚」
□東村山市立四中をめぐる二つの事件
□提訴を宣伝材料に
□信じられない決議案
■創価学会攻撃に転じた「草の根」
□ついに自ら市議選に
第三章 万引き事件発生
第四章 錯誤と悲痛
第五章 転落死と空白の2時間
第六章 小さな正義
第七章 捜査終結から逆転判決へ
あとがき
第二章 矢野という「草の根」の来歴
創価学会攻撃に転じた「草の根」
私の「想像」だと断ってもいいが、こうした結果、ひとつの悪魔的な計画が進んでいた。それについて、順を追って話そう。
訴訟につぐ訴訟の連続で明代の議員生活をつないでいる間に、また訴えても訴えても敗訴続きという状況の中で、矢野はなお議会に対する執着をあきらめていなかった。もともと議会は、矢野にとって明代との「草の根」の正義を明かす場なのであり、それは市民にも歓迎されるべきことなのである。で、おそらく矢野は議会との対立を最も効果的に利用する方法を考えていた。「超党派でつくる新聞」が最初に「草の根」を厳しく批判したのは92年12月。もし、ここでそれを「名誉棄損」で訴えたらどうか――。名誉棄損の時効は3年である。実は、名も実も取れる名案があった。3年目には市議選がある。市民の前でこれを利用しない手はなかった。市議会の26人全員を名誉棄損で提訴し、これを「東村山市民新聞」で大々的に宣伝すれば「草の根」の存在を市民にアピールできる。裁判の結果は別にして、これが選挙でなんらかの結果につながれば勝ったに等しい。事実、朝木明代と矢野穂積が、東村山市議会の26人全員を訴えたのは、「超党派でつくる新聞」が最初に発行されてから約2年後、その3ヵ月後には市議選をひかえた95年1月31日のことだった。ちなみに、この裁判は一審ではすでに矢野の請求が棄却され、現在控訴審が争われているものの、まず「草の根」に勝ち目のない状況であるのはいうまでもないといわれる。
このころ、矢野と朝木が議会を訴えたことを聞きつけ、勝つつもりならもっと効果的な方法があると助言する者がいた。マスコミを利用するのが一番ですよ――その男は矢野にこうささやいた。94年6月から「草の根」事務所に出入りするようになったいく人かの事件屋ジャーナリストがいる。その中の一人が地元東村山市出身のOである。創価学会批判を専門とする彼が、「草の根」に接近したのには実は応分の理由があった。その2年前の92年6月30日、北多摩地区の市議や市長が集まった会議が開かれた。のちに問題となる出来事があったのは、会議終了後の飲み会の席だった。
つねづね公費の使途について重箱の隅をほじくるような追及をしてきた明代が、いつもの調子でこの日も杓子定規なクレームをつけたのである。まともに取り合うような席ではない。許せない妄言なら他日にしておくべきだった。ところが、日ごろの明代のうわさを聞いていた一人の市議がつい「なんだ、女のくせに」とやってしまった。それは公明党小金井市議(=当時)、大賀昭彦だった。以来、「草の根」は徹底的な公明党・創価学会攻撃を繰り広げるようになったのである。またその後、隣の小平市にある創価学園で脱会した生徒をめぐるトラブルが発生した際、明代が生徒の代理人としていきなり弁護士をともなって学園に乗り込むという出来事があった。これを前述のOが聞きつけ、「それ創価学会だ!」と、「草の根」に接近したわけだ。以後、Oは矢野や明代との関係を急速に深め、「東村山市民新聞」に寄稿したり、「草の根」が市内で開催した反学会集会では講師として招かれたりするようになる。
もともとは、「草の根」がことさらに公明党・創価学会を敵視していたわけではなかった。明代が市議に初当選した直後など、「東村山市民新聞」ではもっぱら激しい共産党攻撃をやっていたものである。あさましい党利思想というのか、昔から思想的に共産党と相いれなかった公明党は、そのためか、内心ではむしろ「草の根」の暴走を黙認していたフシさえあった。議会のルールを守らない明代に対する懲罰動議が出されたとき、公明党だけが反対に回り、成立させなかったという出来事もあったほどなのである。またその後「草の根」が社会党市議を攻撃しはじめたときにも、これを面白半分に眺めていた政党があったにも違いなかった。つまり、表面的には議会全体を敵に回していたように見えて、その実、「草の根」は結果的に常にどこかの代理戦争 を引き受け、部分的には歓迎されていたような部分があった。必ずしも党ぐるみではなかったにしても、かつては個人としてそれなりに「草の根」の「草の根」と意思を通じ合えていた市議もいたといわれる。いわば、矢野の「東村山市民新聞」で行う議会や行政全体に対する誹謗中傷は、議会全体に対しては自らの存在をアピールするときどきのパフォーマンスとしての性格が強く、同時に一般市民に対してはその時点のみでのウケを狙ったものだった。これに対して、個々の政党や議員に対する攻撃は、矢野や明代の個人的な対立感から出たものであるとともに、結果的に議会内部のどこかの他会派と間接的に気脈を通じさせるものという側面があった。その意味では、「草の根」は議会内各会派の利害、党利党略が複雑に絡み合う中で巧妙に生き延びてきたともいえるのである。市民には疑問だったろう議員でもない矢野の議場内における傍若無人のふるまいも、こうした背景とまるきり無縁ではなかったのかもしれない。そして前述の92年6月30日、「草の根」の個別の標的はこの日を境に偶然にも公明党・創価学会へと急変することになったのである。以来、「東村山市民新聞」では、公明党議員に対する反感が批判を超えて激しい誹謗中傷となり、間断なく繰り返されるようになっていく。
矢野とOら「創価学会当番」ジャーナリストとの間では、議会に対する提訴の準備と平行してマスコミ作戦が練られていたのかもしれないといわれている。しかし、たんに東村山市の議会や、行政を批判するだけではタイトルにならない。全国区の売れ記事にするには創価学会しかなかった。となれば、その先兵となるのは、グループが以前から親密なつながりを持ち、創価学会たたきにかけては捏造記事すらも辞さなかった『週刊新潮』以外になかった、と。話がどこまで真相かはともかく、事実、このとき出た『週刊新潮』のタイトルは〈創価学会に占領された「東村山市役所」の歪み〉。「草の根」にとっては、学会たたきと議会攻撃の一石二鳥だった。矢野と明代が議会を訴えた翌々日の95年2月2日、時宜を合わせるように首都圏の電車の中吊り広告に同じ文字が躍り、東村山市内の各書店には『週刊新潮』(95年2月9日号)が通常の数倍も配本され、平積みにされた。
その記事はこうだった。
〈創価学会という集団の恐ろしさは、その凄まじい「金集め」や選挙の際に示される「団結力」ばかりではない。いつの間にやら組織の中に入り込み、気づいた時には学会員だらけ、という蔓延ぶりをも見せるのだ。東京都下の東村山市でも市役所に学会員が増殖。いまや「10人に1人が学会員」という声さえあるという。これでは、健全な自治体運営など夢のまた夢。行政の歪みが露呈するのも当然ではないか〉
リードでこう誘導の偏見を植え付けておいて、やおら「東村山市民新聞」編集長の矢野穂積氏が登場している。
〈市職員は1000名余ですが、うち約1割が学会員といわれているんです。……部長級に2人、課長級にはっきりしているだけで6人。しかもそれぞれが役所で要職を占めています……」〉続いて“市会議員”明代が、
〈「職員の中には、親の代から学会員という人が多いこともわかりました。東村山の公明党を作ったといわれる古株の元市議の息子さんも市役所にいます。この元市議の場合は夫人も学会の有力者で、現在の助役もその人の自宅に出入りしているそうです」〉
東村山市役所には学会員が多いだけでなく、市の中枢を占めていて市政に学会の意向が色濃く反映されており、とても一般市民のための市政が行われているとはいえないといっているのである。もちろん、議会も公明党が主導権を握っているのだとして矢野氏が続ける。
〈「当市では選挙をやると投票数は約6万票なのですが、公明党はそのうち1万票とれるんです。当然影響力は大きく、市長も抵抗できないんです。市議会は現在定員が28ですが、自民11、公明6、社会3、共産4で、以下民社、元社民連、生活クラブ、草の根市民クラブが各1という構成。自民だけでは過半数が取れず、公明抜きでは予算も通りません。このままでは次の市長も学会、公明党に牛耳られるのは目に見えています。東村山は嫌な町になってしまいそうなんですよ」〉
この言い方が正しいのなら、いま日本の政治がおかしいのはすべて公明党が影響しているし、総理も行革を進めないのは公明党に抵抗できないからだとでもいうことになるが、国はともかく地方では「そんなこともあるのかも」と思う矮小化の意識が、どうやらこの種の記事が生き残る秘密なのだろう。案の定、地元ですらも『週刊新潮』の反響は大きかった(これは明らかに「ご当地ソング」効果)。市内の書店ではたちまち売り切れとなり、市役所には多くの市民から確認を求める電話や投書が殺到した。なんらかの意図を感じた市民もいたし、記事どおりの不安を覚えた市民もいた。しかし、“事実”が本当にそうなら大変なことで、「草の根」がいうまでもなく東村山だけの問題ではなくなる。それに、市の職員になるのに、いちいち個人の宗教を申告しなければならなくなったり、学会員だからいいとか悪いとかいいはじめたら、この国には「国民の敵」(と彼らのいう)創価学会員や公明党はいられなくなるし、もとより信教の自由はなくなる。そもそも、論理の前提からしてあまりにも無茶苦茶な記事だった。
ちなみに、記事中に顔写真入りで取り上げられた当時の市川一男市長もまた、矢野に訴えられた一人である。前年の94年12月20日、最高裁まで争ったこの裁判は、矢野の完全敗訴が確定している。あるいはこの『新潮』記事によって、矢野は市長に対しても借りを返したつもりだったのかもしれないが、市も市長も大迷惑だった。2月6日、東村山市は市川市長名で、記事に書かれたような事実はないこと、記事の内容はいたずらに市民に不信感を募らせるとともに、市行政への信頼にもかかわる問題であって、きわめて遺憾であるとする内容の抗議文を新潮社・山田彦彌社長宛に送付した。むろん、新潮社からも山田社長からも一言の回答もなかった(そんな程度のものなのである)。
結局、「草の根」に対する議会内の反発はさらに強まった。のちに述べるような市民たちの勉強、活動が感動的な新事態の始まりに結びついたのも、きっかけはやはり市民の逡巡が、利権屋や裏社会をはびこらせると気づいたからだろう。もちろん一方、ここまでやった以上、矢野としてもおさまりがつかなかった。『週刊新潮』の記事そのものは成功だったとはいえない。市長が速やかに対応し、その内容を市報で伝えたことで市民の動揺はすぐにおさまったからだ。そもそも、東村山が創価学会に支配されているなどという事実もなく、市民の間にそのような実感もなかったのである。もしこの実感があったのなら、市長が抗議したぐらいで騒ぎが収束するはずがなかった。要するに、『週刊新潮』の記事内容はあまりにも荒唐無稽すぎたのである。しかし、矢野にとって記事内容が真実であるかどうかなどハナから問題ではなかったはず。 ウソで世間の目をひくとともに、現時点よりも「草の根」の支持者を一人でも増やせればそれでよかった。たびたび書いてきたように、「草の根」では集まってきた支持者たちと誠実に同じ道など歩いてはいない。
矢野がさらに「東村山市民新聞」でこの『週刊新潮』記事を紹介し、「創価学会に支配された東村山市役所」のイメージの拡散、増幅に努めたのは当然だった。いわば自作自演のてんこ盛り。東村山にも他の市にも市内の事情を知らない市民は多い。そうした市民に対して、『週刊新潮』が「草の根」の名を本当の市民運動としての草の根並みに広める役割を果たしたのも事実だった。しかも、その2ヵ月半後には市議選が迫っていた。これからは読者も注意して見ていてほしいが、いつも「創価学会記事担当週刊誌」が大活躍するのはこうした選挙前なのだ(専属ライターたちも出版側も儲かる)。
【解説】
このころ、矢野と朝木が議会を訴えたことを聞きつけ、勝つつもりならもっと効果的な方法があると助言する者がいた。マスコミを利用するのが一番ですよ――その男は矢野にこうささやいた。94年6月から「草の根」事務所に出入りするようになったいく人かの事件屋ジャーナリストがいる。その中の一人が地元東村山市出身のOである。
このOとは反創価学会ジャーナリストの乙骨さんですね。
乙骨さんの方から矢野穂積側に接近していったとは、意外でした。
獅子風蓮