獅子風蓮のつぶやきブログ

創価を卒業し、組織にしばられず、いろいろ考えたりしたことや、読書感想などを書いています。

「竹入元公明党委員長回顧録」を読む その11


断捨離の一環として古い資料を整理していたら、朝日新聞の古い切り抜きを見つけました。
「竹入元公明党委員長回顧録」です。
この新聞記事がきっかけになって竹入氏は池田大作の怒りを買い、創価学会公明党から激しいバッシングを受けます。
それはひどいもので、人格攻撃から家族への攻撃にまで発展しました。

しかし、原資料である、この新聞記事を読むことはネットを駆使しても難しいです。
竹入氏は、回顧録を出版することはせず、鬼籍に入られました。

今回、貴重な資料を共有したいと考え、記事を文字起こししました。
お付き合いください。

 


秘話

55年体制のはざまで⑪ 

1998年(平成10年)9月17日
竹入義勝



【党と学会】一方通行の「放射線」関係

 


20年間、委員長をしていて、政策的には左に右にと大きくかじをとった。1972年総選挙で惨敗したが、このときは左に大転換して臨んだ。日米安保条約も即時廃棄にした。左にきって国民的な支持を得ようとしたわけだ。公明党創価学会の方は右に行くのがやりやすい。ところが国民は違う。むしろ、姿勢をはっきりさせ、政府批判を強めた方がマスコミ受けがよかった。
当時、私は超右で、矢野絢也書記長らが左とみられていたようだが、事実は違うのではないか。政権構想でも社会・公明を軸にすることにこだわったのは私だった。佐藤内閣の時、沖縄返還協定の対応が柔軟になったり、福田内閣の時、有事立法に賛成する動きが裏であったりしたが、私の指示ではなかった。両方とも、刺された傷の治療で私が温泉にいたときの出来事で、連絡を受けて急いで調整した。有事立法の時はすぐに帰京して、賛成の動きをひっくり返した。

  □  ■  □

右に転換したのは78年1月の党大会で「自民党であってもわれわれの政策に賛同するも のは拒まない」と発言し、自民党を含む研究会を提唱した。飛鳥田一雄社会党委員長が共産党を切って踏み出してこないので、もう仕方ない、右旋回と批判されても準備を始めなければと思ったからだ。政策転換は、これから4、5年かかった。自衛隊・安保とかエネルギーとか、徐々にやっていった。

 

進退も会長の意思次第

86年に委員長を交代した。私が党首の座を手放したくないように言われたが、とんでもない話だ。
それまで何度、辞任を言い出したことか。最初は70年の言論出版妨害問題だった。騒動が一段落して5月に辞意を固めた。創価学会本部で北条浩理事長、秋谷栄之助さんら幹部の前で辞意を伝えた。「辞めてどうする」「そちらで決めてほしい。後任には矢野君もいる」「絶対辞めては困る」。結局がんばりきれず慰留されてしまった。
創価学会の世界には独特の論理がある。「辞めるか辞めないかは、自分で決めることでは ない。任免は池田大作会長の意思であり、勝手に辞めるのは、不遜の極みだ」というもの だ。

  □  ■  □

2回目の辞意は、71年9月に党本部前で刺されたとき。3回目は72年総選挙で大惨敗したとき。いずれも「辞めるなら創価学会も辞めなければならないぞ」などといわれ、聞き入れてもらえなかった。
この総選挙は創価学会の十分な支援を得られず、負けても仕方ないものだった。言論出版妨害問題後の対応で、政教分離を文字通り進めようとした私と、大きな変化を求めなかった創価学会との間に溝ができていた。日中国交正常化の際も、周恩来首相との約束があって、中国側の共同声明草案が示された会談内容の一部しか伝えなかったため、幹部たちの反感をかい、険悪な雰囲気が漂っていた。
4回目は、創価学会共産党の協定の時。北条さんから「弟子が反対するなら破門だ」といわれ「やむを得ません」と言ったことがある。このときは辞めるというより、むしろ、早く対処しないと大変なことになるという意識だった。「北条さんだってこの協定には反対でしょう」という嫌み交じりの抵抗だった。
この協定の存在を知らされたのは74年の大みそかだったが、本当に驚いた。旧内務官僚らから「創価学会をつぶしてやる」と息巻く声も出てきた。そこで「共闘はしない」と強調して歩いた。「共闘なき共存だ」と創価学会の幹部も言い出して、事実上、骨抜きにしてしまった。

  □  ■  □

委員長を辞めたのは86年12月の党大会だが、7月の衆参同日選挙がすんでしばらくして、軽井沢で池田名誉会長に会った。次の党大会で辞めます」「ご苦労さまでした」。初めてお許しが出た。落ち着いた気持ちでいたら、大久保直彦さんと市川雄一さん(いずれも元書記長)が来て、「9月に臨時党大会を開いて、早く人事をやった方がよい」と、クーデターみたいな話になった。「指図は受けない。12月の定期大会まであとわずかだ」とはねつけた。
よく後継者の育成をしなかったとか批判されたが、私が仮に後継者を指名しても、そうならないのだから仕方ない。委員長を引き受けるときから人事権は学会にあると、明確にされていた。選挙にしても人事にしても、党内はみな学会を向いている。私の同調者になったら干されてしまう。
公明党は財政、組織の上で創価学会に従属していた。公明新聞や雑誌「公明」も学会の意向が大きなウェートを占め、部数は学会の意向で決められてしまう。党員数も前年数値を参考に調整して決めていた。
政治家になって学会との調整に8割以上のエネルギーをとられた。公明党創価学会の関係は環状線で互いに結ばれているのではなく、一方的に発射される放射線関係でしかなかったように思う。

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言論問題で「政教分離」宣言 

日蓮正宗の信徒団体・創価学会が、国会に初進出したのは1956年7月の参院選で、3人が当選した。61年11月、公明政治連盟が発足。64年11月17日に公明党結党大会が開かれた。67年1月の総選挙で25議席を獲得、衆院に初進出した。翌月の第四回党大会で竹入氏を第三代委員長に選出した。
69年12月の総選挙中から言論出版妨害問題が取り上げられ、国会でも問題化。70年5月に池田大作創価学会会長が政教分離を宣言。6月の党大会で、綱領も仏教用語を削って「人間尊重の中道主義を貫く国民政党」と規定した。
74年12月、作家松本清張氏の立ち合いの下、創価学会共産党の間で「相互不干渉・共存」を目指す協定が結ばれ、池田創価学会会長と宮本顕治共産党委員長が確認。翌75年7月に協定が公表された。公明党はこうした一連の動きに反発し、同年10月の党大会 で「創共協定は共闘なき共存を目指すもの」の見解を出した。
83年12月の総選挙で推薦を含め59議席を獲得しピークに。86年12月に委員長が竹入氏から矢野絢也氏に。94年12月、衆院議員と一部参院議員らは分党して新進党に合流。残る参院議員と地方議員らは「公明」を結成。その後、新進党は解党し、98年1月、旧公明党衆院議員らで「新党平和」を結成した。

(聞き手・構成:小林暉昌編集委員

 

 


解説

委員長を引き受けるときから人事権は学会にあると、明確にされていた。選挙にしても人事にしても、党内はみな学会を向いている。私の同調者になったら干されてしまう。
公明党は財政、組織の上で創価学会に従属していた。公明新聞や雑誌「公明」も学会の意向が大きなウェートを占め、部数は学会の意向で決められてしまう。党員数も前年数値を参考に調整して決めていた。
政治家になって学会との調整に8割以上のエネルギーをとられた。公明党創価学会の関係は環状線で互いに結ばれているのではなく、一方的に発射される放射線関係でしかなかったように思う。

 

公明党の元委員長が、回顧録で公然とこのように発言した意味は大きい。

しかし、これはこれまでもいろいろな角度から言われてきた事実である。

これをもとに、池田氏が激怒しバッシングが始まるというのは、どうも解せない。


獅子風蓮