獅子風蓮のつぶやきブログ

創価を卒業し、組織にしばられず、いろいろ考えたりしたことや、読書感想などを書いています。

『創価学会・公明党の研究』を読む その5

以前、こんな記事を書きました。

新党・中道とは創価学会・公明党の「撤退戦」のための道具だったのか?(2026-02-05)

この記事の解説でも言及しましたが、中野潤『創価学会・公明党の研究』(岩波書店 2016)はいささか古い本ですが、現在の公明党の連立離脱・衆議院小選挙区からの撤退を理解するためには必読の著書です。
この本によると、創価学会は、会員の負担を考え、いつか衆議院から撤退することを考えていましたが、2015年11月の「政変」(正木理事長更迭事件)にからんで、先延ばしにされていたという事情があったようです。

そこで、この本を検証してみたいと思います。

 

創価学会・公明党の研究-自公連立政権の内在論理

暴走の歯止め役か、付き従う選挙マシンか。深まる創価学会と公明党の一体化に伴い、ますます自民党は選挙において創価学会への依存度を高めていく。はじめて明かされる創価学会と政界の攻防。


創価学会・公明党の研究

□序 章 最大の目的は「選挙協力」

■第1章 非自民連立政権の失敗から自公連立へ
 ■非自民連立政権をつくった公明党・市川雄一の栄光と挫折
 □新進党の成功
 □「悪夢のような日々」を招いた新進党への参加
 □池田大作国会招致要求の衝撃
 □自民党の執拗な攻撃
 □動揺する創価学会、一-一ラインの瓦解
 □自自公連立へ 180度の路線転換
 □自民党との連立参加をめぐる小沢との綱引き
 □中選挙区制の復活 果たされないままの裏約束

□第2章 公明党の歴史的変遷

□第3章 創価学会と公明党の内部構造

□第4章 公明党の苦難の時代の始まりと創価学会「政治縮小路線」への模索

□第5章 幻の「民公連携」

□第6章 潰えた選挙制度改革という悲願

□第7章 「ポスト池田」レースと第二次安倍政権下の自公連立

□第8章 解釈改憲を認めた「平和の党」

□第9章 自民・公明の力関係と「維新」

□第10章 2016年参院選へ、創価学会の必死の攻勢

□終 章 創価学会・公明党はどこに向かうのか

 

 


第1章 非自民連立政権の失敗から自公連立へ
  ――自公政権の本質とは何か

非自民連立政権をつくった公明党・市川雄一の栄光と挫折

「すごい時代に入りました。そのうちデージン(大臣)も何人か出るでしょう。(中略)まあ、明日あたりですから。みんな、みなさん方の部下だから」
1993年8月8日、非自民の8党会派による細川連立内閣の発足直前に開かれた創価学会の本部幹部会。名誉会長でSGI=創価学会インタナショナル会長である池田大作は、全国から集まった大勢の幹部会員を前に喜びを隠しきれない様子で、初めて公明党から閣僚が出ることを喧伝した。この池田の肉声を収録したテープが流出し、後に国会等で公明党と創価学会の「政教一致」の証拠だとして自民党からの攻撃材料に使われるのだが、ともあれ9日に発足した細川連立内閣で、公明党は郵政相や労相など4つの閣僚ポストを得て、初めて政権与党となる。公明党は翌年、細川の辞任に伴って発足した羽田内閣では6人もの閣僚を送り込んだ。だが、この非自民連立政権への公明党の参加が、自民党からの執拗な創価学会攻撃を招き、公明党は「悪夢のような日々」(公明党幹部)を過ごすことになる。
ちなみに、この「デージン」発言については、後に池田自身がインタビューで認めた上で、「議員や大臣は公僕だ。そもそも大臣(ミニスター)の語源自体が、『奉仕するもの』ですよ。国民の代表として国民に尽くすのが当たり前です」と述べている(前原政之『池田大作 行動と軌跡』中央公論新社、2006年)。
公明党が非自民連立政権に参加するきっかけになったのは、前年の92年、自民党副総裁で当時の最大派閥であった竹下派(経世会)会長の金丸信が、東京佐川急便の元社長から現金5億円を受け取っていたことが明るみに出たことだった。当時、政界の最高実力者といわれた金丸が現金の授受を認めて副総裁や派閥会長を辞任し、衆院議員も辞職したことで、政界は激震に見舞われる。竹下派では後継の派閥会長の座をめぐって小沢一郎らのグループと、これに反発するグループの抗争が始まり、結局、反小沢派が多数を占めて、元首相・竹下登の推す小渕恵三が後継会長に就任。小沢ら40人余は同派を離脱し、羽田孜を代表とする別グループを結成した。
その3年前、海部内閣のもと、47歳の若さで自民党幹事長に就任した小沢一郎は、自衛隊の海外派遣の枠組み作りに関する自民、公明、民社の三党合意や東京都知事選での協力などを通じて公明党のナンバー2である書記長の市川雄一との関係を深めていった。そして、竹下派内の抗争が始まった頃、市川は小沢からいち早く自民党を飛び出す覚悟を打ち明けられ、連携を持ちかけられる。市川もこれに呼応して、92年11月の公明党大会で、「同じ理念、志をもった人で日本を担う政治勢力を結集するしか新たな政権の軸は作れない」「公明党という看板に固執する必要はない」などとして、後の新進党結成につながる新党構想を打ち出した。
公明党関係者によれば、市川は早くから創価学会名誉会長の池田に、小沢との連携による新たな政治勢力の結集について説明し、理解を得ていたという。当時を知る公明党関係者は「ある意味で、(池田)名誉会長を騙してでも自分の考えを推し進めて行った当時の市川さんは、政治家として輝いていた。あれだけの政治家は今の公明党にはいない」と語る。
93年6月、公明党を含む野党が提出した宮沢内閣不信任決議案が、自民党から小沢らのグループが造反したことによって可決され、衆院が解散されて総選挙となった。解散直後には自民党から武村正義ら10人も離党して「新党さきがけ」を結成。小沢らのグループも44人が離党して「新生党」を結党して選挙に臨んだ。結果は自民党が第一党の座を維持したものの、離党者の穴を埋めることはできずに過半数を割り込む。ここですばやく動いて日本新党代表の細川護熙を首班に担ぎ、非自民・非共産の8党会派をまとめ上げたのが小沢だった。これに公明党の市川が全面的に協力し、二人の思惑通りに非自民連立政権が成立する。
細川政権下では、衆院に「小選挙区比例代表並立制」を導入することを柱とする政治改革関連法案が、紆余曲折の末、自民党の主張を取り入れて大幅に修正した上で成立した。だが、寄せ集めの連立政権はゴタゴタ続きで、細川内閣は細川個人の金銭スキャンダルが原因となって8か月余で総辞職する。その後継の羽田内閣も2か月で総辞職に追い込まれ、一転して社会党委員長の村山富市を首班とする自民、社会、新党さきがけの3党連立政権が誕生した。公明党が与党となった連立政権は1年足らずで崩壊した。
非自民連立政権を実質的にリードしたのは、「強権」「ファッショ」などと批判されることも多かった小沢と市川のいわゆる「一-一ライン」だったが、二人が強引な政権運営によって最大与党の社会党を離反させたことが連立政権崩壊の直接の原因となった。小沢が社会党を追い詰めすぎたことが失敗の原因だと指摘されることが多いが、この間、市川は与党代表者会議などで小沢以上に社会党への厳しい批判を繰り返していた。

 

 


解説

公明党関係者によれば、市川は早くから創価学会名誉会長の池田に、小沢との連携による新たな政治勢力の結集について説明し、理解を得ていたという。当時を知る公明党関係者は「ある意味で、(池田)名誉会長を騙してでも自分の考えを推し進めて行った当時の市川さんは、政治家として輝いていた。

 

政権交代当時のリアルな記憶があるので、このへんの話は実に面白いです。


獅子風蓮